ひとりブラタモリ ♯岩槻城③丸山病院の大構跡の続きです。
岩槻大師~丸山記念病院~サカシタまでの「大構」ラインを辿った後は、再び県道2号線2号線戻り、今度は大構内部の中枢、即ち岩槻城の本丸・二ノ丸・三ノ丸に向かいます。
スタート地点は、大衆フレンチ「プラ・デ・ジュール サカシタ」さん。↓
このサカシタさん前の道は、岩槻駅までつうじいます。↓
この道を進むと、再び岩槻駅前交差点に。↓
↑の写真で、左から右に伸びる道が、江戸時代に徳川将軍が日光参詣の際に通った「日光御成街道」。
交差点を左折して進むと、先ほど行った「加倉口」。右折して進むと、岩槻城の本城に向かうことになります。この右折ルートを岩槻城絵図で見ると、↓の“黄色矢印”になります。
いや!
岩槻城・太田氏築城説は、終わった訳ではありませんよ!
【参考】
ここに人形会館が建てられるとのことですが、さいたま市の収支試算は、はじめから赤字とのこと。
お役所のハコモノ収支試算は甘いのが普通ですが、その甘い試算でも赤字想定というのは・・・
やはり、人形の町、だけでは弱いのです。
戦国時代の関東の雄・岩槻太田氏(岩付太田氏)、そしてその代表としての太田資正を、ブランドとして甦らせなければ岩槻に未来はないッ!
と思わずにいられません。
ちなみに、岩槻市役所跡地には、一里塚の碑も。↓
市役所を建てる時に、そこにあった一里塚を潰してしまうセンス。こういうことに関する岩槻のセンスの無さは、昔から絶望的です。
今も岩槻に残る「渋江」の地名。
岩槻太田氏とこの地を争った渋江氏が、この地名に由来するのは間違いないでしょう。
岩槻太田氏は資正の父・資頼の代に、岩槻城を巡り、渋江氏と激しい抗争を繰り返し、採集に勝利して「岩槻太田(岩付太田)」の地位を確かなものにしました。
渋江氏の残党は、慈恩寺付近に残っていたようですが、最終的には資正によって掃討されています。
敗れ去った一族・渋江氏。
岩槻太田(岩付太田)派の私ですが、この交差点を通る時、いつも渋江氏の悲劇に想いを馳せてしまいます。
【参考】史跡で辿る太田資正の生涯②
さて、この「渋江交差点」を通りすぎると、道は下り坂。そして道の両脇から“お店”が無くなります。↓
お店がなくなるのは、渋江交差点を抜けたこの辺りは、明治以前は街道ではなかったため。
実は「日光御成街道」は、渋江交差点のところで直角に折れ、北に向かって伸びていきます。
渋江交差点の直進した先のエリアは、明治以前は岩槻城の“堀の内”だったのです。(↓の黄色丸で囲まれたあたりです)
“二階が道路と同じ高さ”にある地域は、岩槻城三ノ丸手前の空堀。
その少し向こうの“一階が道路と同じ高さ”にある地域は、三ノ丸を守る樓(やぐら)があったエリアということになります。↓
岩槻城の三ノ丸は、城下町に対して最も近い曲輪。広さもあり、城下町との近さ考えれば、政務上重要な曲輪であったはずです。
そして同時に攻められやすい曲輪でもあったことでしょう。
この三ノ丸を守る地形は、今も岩槻に残されているのです。
【参考】
更に進むと、岩槻公民館前の「城址公園入口」交差点。↓
このまま県道2号線を進めば、本丸や二ノ丸ですが、この日はここでUターン。
何故ならこのルートは、真の岩槻城への入城ルートではないため。
やはりお城に入るなら、表玄関である「大手門(追手門)」を通る正式なものであるべきですよね。
岩槻城の大手門ルートは、実は残っています。
そこに行くには、再び渋江交差点に戻ることになります。