岩槻大師~丸山記念病院~サカシタまでの「大構」ラインを辿った後は、再び県道2号線2号線戻り、今度は大構内部の中枢、即ち岩槻城の本丸・二ノ丸・三ノ丸に向かいます。

 
スタート地点は、大衆フレンチ「プラ・デ・ジュール サカシタ」さん。↓

このサカシタさん前の道は、岩槻駅までつうじいます。↓

この道を進むと、再び岩槻駅前交差点に。↓ 

↑の写真で、左から右に伸びる道が、江戸時代に徳川将軍が日光参詣の際に通った「日光御成街道」。

交差点を左折して進むと、先ほど行った「加倉口」。右折して進むと、岩槻城の本城に向かうことになります。この右折ルートを岩槻城絵図で見ると、↓の“黄色矢印”になります。

右折しての眺め。↓
かつての岩槻市街の目抜通り(市役所通り)ですが、今はちょっと寂しい感じです。↓

この“目抜通り”は、歩道に“岩槻カルタ”(かな?)が埋め込まれています。

カルタの「と」は、太田道灌。↓
黒田基樹によって砕かれた岩槻のアイデンティティ、“太田道灌の岩槻城”・・・

いや!
岩槻城・太田氏築城説は、終わった訳ではありませんよ!

【参考】

更に進むと、「日光御成街道」の右手に、旧岩槻市役所跡地。↓

ここに人形会館が建てられるとのことですが、さいたま市の収支試算は、はじめから赤字とのこと。

お役所のハコモノ収支試算は甘いのが普通ですが、その甘い試算でも赤字想定というのは・・・

やはり、人形の町、だけでは弱いのです。
戦国時代の関東の雄・岩槻太田氏(岩付太田氏)、そしてその代表としての太田資正を、ブランドとして甦らせなければ岩槻に未来はないッ!
と思わずにいられません。

ちなみに、岩槻市役所跡地には、一里塚の碑も。↓

市役所を建てる時に、そこにあった一里塚を潰してしまうセンス。こういうことに関する岩槻のセンスの無さは、昔から絶望的です。

更に進むと、「渋江交差点」が見えてきます。↓

今も岩槻に残る「渋江」の地名。
岩槻太田氏とこの地を争った渋江氏が、この地名に由来するのは間違いないでしょう。

岩槻太田氏は資正の父・資頼の代に、岩槻城を巡り、渋江氏と激しい抗争を繰り返し、採集に勝利して「岩槻太田(岩付太田)」の地位を確かなものにしました。

渋江氏の残党は、慈恩寺付近に残っていたようですが、最終的には資正によって掃討されています。

敗れ去った一族・渋江氏。
岩槻太田(岩付太田)派の私ですが、この交差点を通る時、いつも渋江氏の悲劇に想いを馳せてしまいます。



さて、この「渋江交差点」を通りすぎると、道は下り坂。そして道の両脇から“お店”が無くなります。↓


お店がなくなるのは、渋江交差点を抜けたこの辺りは、明治以前は街道ではなかったため。

実は「日光御成街道」は、渋江交差点のところで直角に折れ、北に向かって伸びていきます。

渋江交差点の直進した先のエリアは、明治以前は岩槻城の“堀の内”だったのです。(↓の黄色丸で囲まれたあたりです)


その意識で道を進むと、この眺めにハッと膝を打つことになります。

坂道を下った先の左手に広がるのは、二階が道路と同じ高さにある住宅地。↓(個人宅なのでぼかしました)
“二階が道路と同じ高さ”にある地域は、岩槻城三ノ丸手前の空堀。
その少し向こうの“一階が道路と同じ高さ”にある地域は、三ノ丸を守る樓(やぐら)があったエリアということになります。↓


岩槻城の三ノ丸は、城下町に対して最も近い曲輪。広さもあり、城下町との近さ考えれば、政務上重要な曲輪であったはずです。
そして同時に攻められやすい曲輪でもあったことでしょう。

この三ノ丸を守る地形は、今も岩槻に残されているのです。

【参考】
・上の投稿で描いた図(ドライブルート)も再掲します。↓



更に進むと、岩槻公民館前の「城址公園入口」交差点。↓
ここはもう三ノ丸です。

このまま県道2号線を進めば、本丸や二ノ丸ですが、この日はここでUターン。

何故ならこのルートは、真の岩槻城への入城ルートではないため。

やはりお城に入るなら、表玄関である「大手門(追手門)」を通る正式なものであるべきですよね。

岩槻城の大手門ルートは、実は残っています。
そこに行くには、再び渋江交差点に戻ることになります。