神奈川県立近代美術館・葉山で開かれている「100年前の未来 移動するモダニズム」(来年1月28日まで)を見てきた。概要を紹介したい。

 2つの世界大戦に挟まれた1920~30年という時代を振り返る展覧会だ。1910年ごろから顕著になる、過去や伝統と袂を分かち進歩的な新しさ(モダニティ)を追求する「モダニズム」という世界的な潮流の中で、日本美術もその影響を受けた。

 この時代は、大正デモクラシーの風潮のもとで学問や芸術が盛んになる一方、ロシア革命(1917)の影響で、プロレタリア思想が台頭する。雑誌「白樺」(1910~23)はゴッホやセザンヌ、ロダンらヨーロッパの画家・彫刻家を紹介して、若い作家たちに影響を与えた。一方で、スペイン風邪のパンデミック(1918~20)や関東大震災(1923年)の大打撃によって、村山槐多や関根正二ら才能ある芸術家が命を落とした。こうした状況は、コロナウイルスのパンデミックやロシアのウクライナ侵攻が起きているこの世相に少し似ているかもしれない。

 ロシア革命とソビエト政府に反対した人々の亡命は推定90万~200万人に上った。その中には当然、芸術家も含まれていた。1910年ごろから、イタリアの「未来派宣言」(09年)から名付けられた「ロシア未来派」が前衛的な美術を目指す。その拠点となったのがウラジオストク(浦塩斯徳)だ。日本海を渡ればほど近いこの都市から、ロシア未来派のブルリューク、パリモフらが1920年10月、福井県敦賀市経由で来日し、東京と大阪で、出品400点を超える「日本に於ける最初のロシア画展覧会」を開いた。これに呼応するように普門暁、木下秀一郎らが「未来派美術協会」を結成。その展覧会と二科展への出品も、モダニズム気運を高めることに貢献する。

 展示の中には、盛岡高等農林(現岩手大学)で宮沢賢治らと文芸同人誌「アザリア」を創刊した詩人で俳人、河本緑石(1897~1933)の同時代とみられる「自画像」(制作年不詳)もある。水沢勉館長は「明らかにロシア未来派の影響がある。どうして未来派を知ったのか、今後明らかにしたい」と話している。その作品は確かに、顔がいくつもの部分に分かれたような半ば抽象絵で、パリモフの「踊る女」(1920)や普門の「鹿・光」(1919)との共通性が見られる。

 日本から西洋への人の移動による芸術(モダニズム)の伝播が盛んになる時代でもある。展覧会では、関東大震災に被災し30歳で命を落とした久米民十郎(1893~1923)にスポットを当てている。黒田清輝の勧めで1914年にロンドンに渡り、第一次大戦から逃れて集まっていた芸術家と交流し、ヴォーティシズム(渦巻派)などの影響を受けた。

 代表作ともいうべき「志那の踊り」(油彩、1920)は中国の1室の床に敷かれた絨毯の上で踊る女を描く。しかし、女の体は奇妙にくねり、腕も首も足も渦巻いている。とがった右手の爪だけが見る者(鑑賞者)の方に向けられ、心に突き刺さる。帰国後は「霊媒派」と呼ばれる作品を発表した。久米はこんな言葉を残している。「自分ノ芸術ハ自己ノ万象トノ霊媒デアル」

 展覧会では、日本では無名だったが、ヨーロッパからモダニズムの精神を持ち帰った村山知義(1901~77年)、福沢一郎(1898~1992)らも取り上げている。とくにベルリンでダダイズムの影響を受けた村山は、絵画以外にも小説、ダンス、演出などマルチな分野で精力的に取り組んだ。油彩とコラージュによる「美しき少女らに捧ぐ」(1923ごろ)のほか、ダダ運動のグループMAVO(マヴォ)の活動に関するポスターや資料なども展示している。

 1920年代のヨーロッパでは、モダニズムに基づくさまざまイズム(主義・芸術運動)が繰り広げられていた。ダダイズム、キュビスム、未来主義、フォービスム、シュールレアリスム…。主義だけではくくれない「エコール・ド・パリ」のような一時代をともに活動した芸術家たちもいた。それが、様々な都市に飛び火していく。そして日本も例外ではなかった。「大戦の影響もあって、紙巻きタバコや腕時計が発明されるなど、さまざまな国際化が進んだ。(モダニズムは)同時多発的に起き、ほぼほぼ世界は同時に目覚めたといっていい」(水沢館長)

 この時代に活動していた岸田劉生(1891~1929)、藤田嗣治(1886~1968)、萬鉄五郎(1885~1927)、古賀春江(1895~1933)ら著名作家の同時代作品も展示されている。まとまりには少し欠けているが、2つの大戦に挟まれた時代、すでに多様な表現の萌芽が始まっていたことを知ることができる展覧会だ。(※25日に行われた、展覧会についての解説「館長トーク」を参考に、大幅に書き換えました)

                        (2023.11.16 風狂老人日記)