しばらくぶりのブログ執筆である。包み隠さず言うと、パソコンが壊れ、修理に出したために、約1ヵ月文章を打てなかったのだ。スマホでもブログを投稿できるのだろうが、小さな画面に文字を入れ込む作業は、高齢者にはつらい。夏休みと思って、しばらく充電に充てていた。余っている時間には何冊かの本を読んでいたのだが、それについては後日、書くつもり。今回は、懸案だった95歳になる母親との面会が叶ったので、その様子をつづりたい。

 母は、父親が総督府に勤めていたために台湾で生まれ、14歳で終戦とともに日本に引き揚げてきた。やがて高校教師をしていた私の父と結婚して、私たち男の子3人を育てた。専業主婦だったので、父の両親の最期まで見取ったから、ほかには何もできなかっただろう。しかし、いつも明るくて、愚痴は言わない女性だった。

 実家では、私の弟夫婦と孫娘2人と暮らしていたが、80歳代後半から認知症が進み、2年ぐらい前から、施設に入所している。実は昨年から、弟を通して面会を申し込んでいたが、私の日程が合わなかったり、施設内でコロナウイルスの感染が出たりして、延び延びになっていた。

 施設は実家から車で5~6分のところにある。クリーム色の大きな建物で、三階建て。母のような高齢者約100人が入所していて、食事や排泄、医療などすべてが完全介護で行われている。母は下半身が動かせなくなり、車椅子の生活だが、食事は自分の手でしているという。大部屋で数人の入所者といっしょだが、面会は、その部屋ではなく、1階のロビーで弟と2人だけ、わずか15分に限られていた。

 私は少し心配していた。認知症がどんどん進んで、私の顔を見ても、誰だか判別がつかないのではないだろうか。それだったら、会っても仕方ないのではないか、との懸念だった。しかし、考え直した。母が私を認識できなくても、私の母に変わりはない。残り少ない人生の時間を、母自身が楽しんで生きてくれればいい。やっぱり、会って母の顔が見たくなった。

 ロビーに降りてきた母は、痩せていた。手の指は、細く長くなって、顎も小さくなり、肩や首も細くなっていた。でも顔には、いつもの優しい笑みがたたえられていた。

 窓から見える木々や草を見て母は、「まぁ、緑がきれいだね」とつぶやいた。私はうれしくなって、自分の名前を告げると、「○○ちゃん!?」と、私の幼いときのニックネームを返してくれた。息子を覚えていてくれたのだ。私は歓喜に舞い上がって、いろいろ話しかけたが、会話は長続きしない。そこまで母の脳の働きは力強くはないのだ。

 そこで私は、土産に持ってきた音楽のCDプレーヤーと、CD数枚を手渡し、ヘッドフォンでまずショパンのピアノ曲を聴かせた。「いい曲ね」と、母が応じた気がした。私は続けてベートーヴェンの第九(交響曲第9番)のCDジャケットを見せて、「第九だよ、カラヤン(の指揮)だよ」と、母の心の奥底に届くように話しかけ、へたくそな鼻唄で、第九の旋律をなぞった。すると母が、それに合わせて〝意味不明な歌〟を歌いだした。しかしそれはすぐ、第九の中で歌われるシラーの詩「歓喜の歌」だということがわかった。

 母が第九をこよなく愛していることは知っていたが、まさか、ドイツ語で歌詞まで覚えていたとは。高女(高等女学校)時代に覚えたのだろうか。音楽ってすごい。80年も前の記憶をよみがえらせるのだから…。

 来てよかった! もう、これだけで、来た甲斐があったと思った。母親と弟と記念写真を撮っていると、もう15分が過ぎていた。私は持ってきたCDをこれからも母に聴かせてくれるよう、係の人に頼んで、施設を後にした。(2026.8.11 風狂老人日記)