いま、「仏像の誕生」(岩波新書 高田修著)を読んでいる。釈迦によって創められた仏教の中で、日本では欠かせなく、重要なシンボルともいえる「仏像」というものの意味を知りたくなったからだ。

 私には大学時代、たまたま受けた東洋美術の講義のなかで、釈尊の死(BC5~6世紀)後からそれほど時代の経っていない古代の仏教美術では「仏像のない時代」があったことを学んだ。仏陀(釈尊)の姿は表わされず、その存在を表現するために、仏座、仏足跡、菩提樹、車輪形などを描いて示唆している。こうした表現に軽い驚きを覚えたが、それ以上、深く勉強することもなかった。

 やがて、何かの折に読んだ本で、古代ギリシャ・マケドニアのアレクサンダー大王(BC336~)による東進によって、神々を人間の像で表わすギリシア文化がインドに伝わって仏像表現を生んだ、ということを常識のように信じ込んでいた。しかし、その意味を考えることもしなかった。

 著者によれば、「仏像のない時代」では、故意に釈尊の姿を表わしていない。なぜか。古い経典の集録「ディーガニカーヤ」の「梵網(ぼんもう)経」では「如来の身(しん)は生に導くものが断ち切られた状態にあり、この身の存する限りは人々も神々も見ることができるが、身がこわれ命が尽きたのちには見ることができない」とあり、「永遠の滅(涅槃)」に入った仏は誰も見ることができないと説いている。また、古い聖典「スッタニパータ」では「滅し去ったものには(大小を測る)計量(はかり)はなく、論議すべきよすがもない」と述べられていて、仏を描写することは無益で、何かの生き物として描写することは誤りになるとされている。

 これはまさに、釈迦がすべての欲望(煩悩)を捨てて悟りを開き、涅槃(不生不滅の境地)に達することを意味している。だからこそ、絵や像によって表わすことは不可能だと教えられていたのだ。

 ところが紀元後に入ってから、北西のガンダーラ地方では西洋(ギリシアやローマ)の影響を受けた仏像が、マトゥラー地方では西洋の影響のほとんどない仏像が作られるようになった。どちらが先か、どちらが元祖なのかなどの論争はまだ続いているようだが、それは、専門の学者に委ねたい。

 私にとっては、仏像を作る意味と、仏像によって仏教がどう変わっていったのかの方が、興味深い。

 なぜ仏像を作ったのか。それはやはり、布教するために必要だったからだと思う。厳しい修行を積んだ僧侶だけが解脱できる上座部仏教(小乗仏教)ではなく、とくに出家しない民衆でも救うことを目指す大乗仏教では、仏像によってイメージを喚起し、拝む対象としての仏像が必要だと思ったからだろう。

 そして日本には、中国・朝鮮をへて6世紀に、大乗仏教と仏像が伝来した。争いをへて、国(天皇)は仏教によって民衆を治めるため、寺院を国中に建立していく。一方で、遣隋使、遣唐使を中国に派遣し、仏教を学ばせたが、それはあくまでも中国の仏教だった。釈迦が苦行の末に悟りを開くという「あくまでも個人の努力よる悟り」の真理から、日本の仏教は少しずつ遠ざかっていったのではないだろうか。

 もともと日本には八百万の神がいたが、本地垂迹説や神仏混淆など「仏と神の合体」も行われ、さまざまな宗派、仏像がつくられていく。それはまた死の苦しみだけでなく、病気、老い、恋愛、貧困、飢餓…、民衆が救ってほしいと願う苦難ごとに現世利益をほどこすように、寺や仏像が用意されたと言っては言い過ぎだろうか。聖書やコーランのように誰もが読み理解できる教えがあるわけではなく、さまざまな漢語を唱えるお経をほとんど理解しない信徒ばかりだったのではないのか。

 悪口はこのぐらいにしよう。

 仏教が日本に伝来しておよそ1500年。梵語を学び、インド本来の釈迦の教えに立ち返ろうとした高僧や、民衆を救おうと慈善事業や土木工事をした名僧らがいたことを承知で問うが、これだけの長さの時間の中で、仏教によって日本の社会は善に導かれ、日本人の心は豊かになったのだろうか。

 先の戦争で、日本の仏教は少しでも参戦をひきとめる力として働いたのだろうか。そしていま、ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ地区攻撃について、仏教界は何を訴えているのか。

 仏教に限らず、いまほど宗教の力が問われている時はない。そう思うのは私だけだろうか。                     (2024.5.21 風狂老人日記)