親を尊敬することについて
両親には大変感謝しています。
今でも大好きです。
電話で話していて、イラッとすることも たまにはありますが、
それでもやっぱり大好きで、感謝しています。
でも、両親を尊敬しているかというとそれは「ノー」
僕にとって、尊敬する対象とは、何かを判断しようとするとき、
「あの人ならどうするだろう?」
と頭に思い浮かぶような人。
「判断」によって「行動」が変わり、その「結果」の積み重ねが「人生」となる。
だから、その人のように生きて生きたいと思う人が、尊敬の対象となります。
僕は、今、両親のような人生を目指してはいません。
両親の人生がどうこうというのではなく、単に、目指すものが違うだけです。
だから、もし僕が子育てをはじめたら、
両親も尊敬の対象になってくるのかもしれません。
吃音センセイ
吃音の王子が英国王ジョージ6世になるまでの物語を描いた、「英国王のスピーチ」が話題になっているようですが、こんな小説も最近出版されています。
「吃音センセイ ~桜舞う校庭で~」
http://ameblo.jp/kitsusen/entry-10829730003.html
こちらも、吃音をかかえた、実在の女性教師をモデルに書かれたものです。
上記のブログから、書籍になっていない部分なども読めます。
著者は、ネットマーケッターということで、こんなアマゾンキャンペーンもやっています。
これに釣られて、読んでみたら、思った以上に素敵な物語でしたので、ご紹介します。
怒りと条件反射
人を批判する
大学時代、楠本浩之先生が、九工大で講演をしてくださったことがあります。
めちゃめちゃしびれました。
僕の人格形成上、非常に影響のあった講演の1つです。
その中で、ふと思い出した言葉があります。
正確ではありませんが、おおよそ次のようなものでした。
「人を批判するのは、自分は悪くないと言いたいだけ。
自分が責任をとりたくないだけ」
社会の健全性を保ったり、科学の発展のために、批判精神は大切です。
ただ、自分にとって都合の良くないことが起きたとき、
人のせいにしてしまうのは、思考停止だと思います。
そして、それは、受動的な生き方をもたらすのでしょう。
自分の幸、不幸が、他者によって大きく左右されてしまう人生は不自由だと思います。
自分に起こることを受け入れ、消化し、糧としていく。
そんな、主体的な生き方をしていきたいなと思います。
コメントが気になる
他の人のブログにコメントを書く
そのコメントに返答があるとうれしい
返答がないと、ちょっとさみしい
でも、「そんなん期待して書いたんじゃないし~」と、平静を装う
コメントへの返答を読むとき、沢山コメントがあるのに、
真っ先に、自分に対するコメントを探してしまう
やっぱり、僕は、人に受け入れられたいとか、人から認められたいとか
結構思ってるんだと、よくわかる
そういえば、集合写真を見るときも、真っ先に自分を探してしまう
思春期は、好きな子を真っ先に探していた気がする
子どもが出来たら、自分より、子どもを探すようになるのかな?