まず率直な感想として、ドラマ自体が面白くなかった。
手法が古いからなのかな。
「お涙ちょうだい」と揶揄されているような、ドラマの創り方みたい。
子どもたちを「善なるかわいそうな存在」として際立たせるために、周囲の大人を対立する「悪」として描いている。
その二元的な構造が、なんだかとてもチープで。
人物像が、かなりデフォルメされているということを差し引いても、PTAやお金持ちの家族や、児童相談所の職員の描き方が、あまりにもリアリティがなさすぎる。
それで私は、1話だけ観て視聴をやめたのだけれど、スポンサーが全社クレジットを止めるという問題に発展したので、第4話を観てみた。
そしてやっぱり、ドラマとして面白くないと感じ、これ以上観る必要はないなと思った。
これだけ世間で話題にされていると、普通、視聴率は伸びる。
でも、実際は下がって来ているとのことなので、やはり話題性よりも、作品の質の問題だろうなと思う。
私は、嫌なら見ないという選択が出来る。
早々に、忘れることも出来る。
だけど、名指しで「悪」とされたシステム(赤ちゃんポスト)や、関わる周辺の大人たち、「かわいそうな存在」とされた子どもたちへの、偏見や誤解は消えないまま残る。
虐待を受けた子どもたちのシェルターに関わりを持ち、児童養護施設に取材に行ったこともある私は、そこに関わる大人たちの切なる思いに触れている。
ひとりの子どものために、共に考え、走り回り、汗を流して、泣いたり笑ったりしている人たちを見つめた。
その活動の報われなさ、大変さも感じた。
もうこれ以上、不用意に子どもたちの傷に触れてくれるなという心境の方も多いように思う。
当事者である子どもたちは、自分の意志とは関係なく、大人の都合でその環境に追いやられる。
縁のあった施設の環境の良し悪しが、自身の運の良し悪しに直結する子どもたちの苦悩も見た。
そして何よりも、実親と、適切な愛着関係を築くことが出来なかった子どもたちの悲しみの強さ、傷の深さは、察するに余りある。
あえて今、それを描くのは、なぜ?
創作し表現する者は、そんな問いかけと覚悟が必要なんだと思う。
震災の被災者の方々や原発事故で故郷を追われた方々を描くのも、社会的養護を受けている子どもたちを描くのも、今もなお、苦しみ続けている人がいる以上、表現をする側に、同じ痛みを抱えるほどの覚悟がなければ描けないことがあるのだと気付いていなければならない。
そして、同じ痛みなんて、絶対に分かることは出来ないのだという無力感に足掻き続け、その痛みを想像し続けなければ、当事者の方々に納得していただける作品は創作できないと、肝に銘じなければならない。
「所詮は、ドラマですから」
では、すまされない領域があるのだから。
これは、社会的養護を受けている子どもたちを描く、映画製作に関わっている、私自身の問題でもある。
子どもたちが、これ以上傷つくことがないような、子どもたちが、未来への光として感じ取ってくれるような、そんな映画が創りたいと願っているのだけれど、3年を経ても、まだ完成しない。
本当に難しい。
もう、出来ないかもしれない…
と弱音を吐きつつ、創作し表現する者としての矜持は捨てないでいよう、と日々思っているのだけれど。
「明日、ママがいない」問題は、この後どんな展開を見せるのだろう。
今、巷にあふれている、単なるいちゃもんや言い掛かりではない、「子どもを、これ以上傷つけないで下さい」という本気の願いを、私自身が真摯に受け止め、学ばなければならないと思っている。