浜町徒然草〜CHANMALU JAPAN~ -21ページ目

息子のこと

音楽とか音楽とか音楽とかって

1年前のあの日の事

1年前の3月11日、14時46分。おれは伊勢原市で営業車を運転していた。
あ、タイヤパンクした、と、思った。車が左右にはげしくゆれたからだ。次の瞬間、電信柱がゴム製であるかのごとく曲がっているのを見て、気付いた。めちゃくちゃな地震だ。車では常にラジオを聞いている。リアルタイムでラジオのDJが落ち着いて下さい、落ち着いて下さいと連呼していた。その場に車を停めた時、そこらの会社から人が次々にでてきた。震源地は、まさかと思った瞬間、ラジオから三陸沖だと伝えられた。ソッコーで釜石の母ちゃんに電話した。繋がらない。父ちゃんに電話。繋がらない。すぐさま小田原の息子と一緒にいるはずの嫁に電話した。繋がらない。パニクッてる。おれは明らかに今、パニクッてる。アタマ真っ白。冷静になれるわけない。どうなってるんだ、どうなってんだ、親は、現場は、釜石は、嫁は、息子は。何もわからず、大切な人はおろか、会社の誰とも連絡がつかない。
取り敢えず厚木の営業所に戻ることにしたが、かなりの時間がかかった。信号が完全に消えていてほとんどが徐行運転だったからだ。
やっと、営業所に帰ってきてしばらくラジオを聞いていたがいてもたってもいられず、近くのコンビニの公衆電話に電話をかけに行った。

親、出ず。
嫁、出ず。
嫁の、実家、出ず。
兄2人、出ず。


だれもでない。

そう思って最後にかけた、

従兄弟が出た。

しかし全く同じ状況。だれとも連絡がつかないらしく、なにかわかったらまた連絡するといって切った。
後ろには電話待ちの人が3人並んでいた。夢中でかけまくっていたから全く気付かなかった。
しばらくして嫁と連絡がついて、実家にいて息子と共に無事とのことで死ぬほど安心した。
その日はなんとか家に帰って嫁には実家に泊まってもらった。

朝までテレビをみていた。

ずっとやめていたタバコをめちゃくちゃ吸っていた。

釜石の報道が全くなかった。

次の日から兄ふたりと連絡がついた。

釜石の映像、情報がないのは被害が少なかったからだ。
そう言い聞かせていた。

その後見た釜石市内の映像、実家の裏の港から容赦なく襲い来る津波の映像を見て、

泣いてしまった。

地獄絵図。

夢だろ?

そしてついに、3日目。

兄から両親、ばあちゃん、親戚、犬みんな無事と、聞いた。

信じられないほど安心した。

うれしかった。本当に。
家は流されたが、家の裏が港とゆう状況で。奇跡だ。
ただうれしかった。
ばあちゃんなんか80超えてる。
うれしかった。本当に。

そして釜石で消防士やってる、ひろかず。ずっと連絡がつかなかったが、生きてた。
死ぬほどうれしかった。

4月9日に釜石に行った。両親、
ばあちゃんに会えた。

めちゃくちゃ、うれしかった。



しかし、

なんにもできない自分が、
ただただ、くやしかった。

それは今でも変わらない。


あたりまえがあたりまえじゃなくなった。

両親は今、仮設住宅で生活している。

変わり果てた街並み。

その日、ひろかずにはあえなかった。

6月、クーボさん主催でライブをやるため、再び釜石へ。

やっと、ひろかずに会えた。

ギリギリ、ほんとギリギリまでいろんな人を助けたことを、聞いて、本当にこいつは、消防士として。一人の人間としてやってきたんだなと、
生きてくれていてありがとう。
そうつたえたら、探してくれてたんだってな、ありがとな。と言われた。


ライブでは母ちゃん、おじちゃん、おばちゃん、やっと会えたたくさんの知り合いの笑顔が見れた。

ほんとに釜石でライブしてよかった。
おれができるのはこれだと思った。


ライブではひさびさにひろかずが笑顔になってたって奥さんのたかちゃんから聞けてかなりうれしかった。
ひろかずの息子、2人も笑顔だしてくれてて、本当にうれしかった。
クーボさんに、感謝。






2011年3月11日のことを、おれは絶対に忘れない。