◆ 衣食足りて礼節を知る
詳しくは述べませんが、わたしは子ども時代、非常に飢えていました。こういう人はわたしだけではないかとは思うのですが、わたしも小学校に上がってからの給食が命綱という状態でした。ですので、たまに残る欠席のクラスメイトの分の給食を、事情はわかりませんが、同様に飢えていた子ども達と、目の色を変えて奪い合いました。
学校帰りにはクラスメイトの家に寄らせてもらい、食べ物をせがんでいました。
「なんと口の卑しい奴か」とご叱責を受けても仕方がない状態だったのですが、しかし、中には「かわいそうだ」と、小さなお弁当をわざわざ作って下さったご父兄のかたがいてくださいました。
わたしは何が起きたのかわかりませんでしたが、とりあえず、常に飢えていましたので、頂きました。その時のことを思い出すと、その方の愛に、今でも心からの感謝を感じます。お幸せを、心から、お祈りしております。
◆飢えと過食
わたしはそのような、分別を失うほどの強烈な飢えと、後の摂食障害(過食嘔吐症)という、ある意味で両極を経験したうちの一人ではないかと思っています。
そのような経験から、今、当時を振り返って、言えることは多々あるのですが、その中から今回は二つをお伝えします。
一つは、わたしは人間が飢えの極限状態に追い詰められた時の姿を、年端もいかぬ子どもの頃とは言え、自らの行いを以て知り、「衣食足りて礼節を知る」という言葉の意味を思い知りました。これについては本ブログの主題のひとつである摂食障害には直接関係がないのでこれ以上の言及は差し控えます。
もうひとつは、自身の経験から、過食症の人に対して「飢えている人の身になりなさい」と叱っても、過食症の治療に良い影響を及ぼすことは一切ないという立場を取っているということです。
そのように叱責したくなるお気持ちはわかります。楽しく食べているならともかく、食べるわ出すわ、もったいない、一体何が苦しいのだ、と言いたくなる人がおられても不思議ではありません。
しかし、飢えと過食症は、まったく別の苦しみだと思っています。どちらが苦しいという比較すらできません。別物です。
とは言え、「どちらも生きるために行動している」と言う点においては同じかもしれません。飢えから逃れるための行動は、肉体の死を避けるための摂食行動であり、過食症はある意味で精神の死への恐怖を避けたいがための摂食行動とも言えるでしょう。
いずれにしろ、「過食症だなどと、飢えている人たちに対して失礼だ」といった考え方は、そう思われるのは仕方がないとは思いますが、偏見であり、飢えと過食症の苦しみはまったく別物であるという視点があることを、少なくともご本人や周囲のサポーターの方々には知っておいて頂き、過食症の人々を責めることがないようにお願い致したく思っています。
では、今回はこれにて・・・。
(当ブログも別ブログ「古今東西」も不定期更新)