わたしのご提案は、どちらかと言えば「他者が不在でも、ひとりで自己を癒したり、許したりして、解放できますよ」といったものが多いかと思われます。


 それはわたし自身が、たとえばカウンセリングすら行ける状態ではなかった、とか、
恐怖などに耐えて必死に通ったのに、うまくいかなかったという経験もあるためです。


 ですので、他者や結果に一切期待しない生き方を、結果的に練習してきたとも言えます。


 しかし、そうは言っても、やはり他者にわかってもらった時にホッとした感じ、嬉しさ、楽しさ、ありがたさといったものって、あるのではないかとも思っています。


 そこで、かつてご縁あって出会ったかた達のご経験からも言えることを、今回シェアしたいと思います。


 例えば長年一人で頑張っていてつらかった、
大変だったとか、
「孤独感や孤立感にさいなまされてきた」といったような場合、


理解してもらえたとか、わかってもらえた、と実感した時に、以下のような傾向が見られることがあります。


● 過剰な喜びを感じる
● “仮そめの快”


 上記はいずれもしかたのないことであり、責められるべきことではありません。と申しますか、責めてもそのかたの「本来の幸せな状態」には近づきにくいのです。そして、そうなるからにはその人それぞれに事情がおありです。


 まず一つ目の「過剰な喜び」についてです。
これは「比較的、安心感のある人間関係を経験してきた人々 」との比較であり、わたしの経験上で、統計などはとっていないのですが、明らかな傾向があると感じています。


 これについては、自己内の喜びが増えていくと自然な状態に落ち着いて行く可能性が高いものです。

 ちなみに、一応ご紹介しておきますと、
先述のような「比較的、安心感のある人間関係を経験してきた人々 」も、
「わかってもらえた」と思った場合に、
「気の合う人が見つかって嬉しいな」ということはありますし、気分も良くなります。

 ただ、そういった喜びや楽しい気分は自己内で反響(こだま)していることも多いのです。
 これは「自分の意識を内側にも向けることができている状態」と言えるものです。


 こういったこともなんとなく知っておくと、精神的回復の助けになることもあるでしょう。


 次に“仮そめの快”についてです。
 「過剰な喜び」の実感と少し異なり、こちらは依存を生みやすいものです。


 そこまで深刻ではない言い方をすると、理解してくれた他者に「しつこくしてしまう」のですが、本人は無自覚なことも多いのです。


 そして「拒否された!」と感じると、一度「わかってもらえた」喜びや「もっと“快”がほしい」という期待や欲求の高まりがあるために、人並み以上に傷ついてしまうことがあります。

 
 場合によっては、怒りや攻撃という形で 何らかの復讐を行うことで、様々なものを取り戻そうとするケースもあるのですが、これらも自動的な反応として、少なくはない行動です。


 ここで、こういった皆さまに助言させて頂いていることをお伝えします。


●「わかってもらいたい」という承認欲求自体は自然なことです。


● 承認欲求には種類があるのですが、今回の話では特に、苦しみや孤独感が強かった場合 の「飢餓型の承認欲求」 について話しています。

 この「飢餓型の承認欲求」 は、誰かから何か(・・)を「もらおう」とする行為であると考えるとわかりやすいでしょう。

 そして外部からもらおうとしている何か(・・)とは、安心や受容であったりしますが、根源的には「愛」と呼べるものなのかもしれません。

 本来は「わかってくれる存在」とは、めったにいなかったり、ありがたい存在であるということを、あらかじめ知っておくとよいかもしれませんね。

 そして幸運にも、もしも見つかったとしても、お近づきになるのは、ほんのちょっとずつから始めてみることがおすすめです。


● ゆくゆくは承認欲求を「自分のこの苦しみをわかってもらいたい」ではなく「自分にとっての嬉しい、楽しい、面白いこと」を、「分かり合える人がいたらラッキー♪」といった方向に考えられるようになっていくとラクになるでしょう。

 その変化には、たとえば「誰に認定や許可を求めなくても、自分一人で自分を満足させることができる」とか「行動できる」と少しずつ実感を重ねていくことも有効です。

 そして、自分が満たされること、愛されることばかりではなく、自分から何かを愛することも意識していきましょう。


● 「理解してもらえない、わかってもらえない」と思うような相手からは、そっと離れることをおすすめしています。もちろん誤解があれば調整したりすることもあるでしょう。

 しかし、中には、相手に対してどうこうしようと働きかけるのではなく、基本的に自分の視野からすーっと外し、二度と近寄らなければいいという手段が最善であることもある、と、知っておいて損はないでしょう。


 もちろん、中には「おはようございます」といったような挨拶(あいさつ)だけはする、といったことも“大人な対応”だとか、無難(ぶなん)だということもありえます。


 無難(ぶなん)さとは、個性の埋没といったネガティブな面だけではなく、「自分の身を守ることができる」というポジティブな側面もあるものです。


 ですのでご自分で色々な人物やシチュエーションに応じて試されることもいいかもしれません。


 ・・・そして目指すべきは、皆さまそれぞれの、ご自分の『マイ・ワールド』であるとおすすめしています。


 『マイ・ワールド』について簡単に復習すると、それは例えば以下のようなものから始まると言うことができます。


●小さな喜び
●自分の世界
●自己内の楽しさの反響、噛みしめ


 これらの要素は、本来は誰にでもあるものです。


 そして先ほど述べたような「自分から何かを愛すること」の対象が、
『マイ・ワールド』の構成要素でもあります。

 
 今現在の、できるだけ小さな、他者から見たら取るに足らないような楽しみなどの実感を積み重ねていきましょう。


 たとえばわたしの『マイ・ワールド』は、こういった記事を書くことに始まり、
家具の移動、作品作り、生活改善(たとえば今日は壊れた折りたたみ傘を補修しました)、
散歩、動植物や蝶や岩石たちとのお話、映画鑑賞etc・・・

といった、本当にささやかだったり、ありがちだったりすることです。


 これらがわたしのやりたいこと、望むことであり、楽しく、満足なのです。


 『マイ・ワールド』は拡大していくだけでなく、変わったりもしていきますので、自分自身の変化としても楽しんでいけるものです。

 


 

さらには『マイ・ワールド』の先にある「自分らしい人生展開」についてですが、この領域を言い換えると以下のようにも言えるものです。


●共同体への貢献
協働(きょうどう)
●他者との創造、ポジティブな相互作用、循環


 ただし、
自分の喜びや幸せといったものを見失っているといった場合は、一度『マイ・ワールド』に立ち返り、発見や確認、強化といったことをすると良いでしょう。


 「自分らしい人生展開」の段階は、人によって時期や規模、あるいはここを経験するかどうか自体(じたい)も異なっていますが、そこに優劣はありません。


 そもそも『マイ・ワールド』の状態を自分で知り、できるだけとどまるだけでも、周囲に過度な苦しみを拡散しにくくなるといった意味においても、十分大切なことです 。


 ですので安心して『幸福のための全貌図』の下からじっくりと、自分自身と向き合って頂きたいと思います。


 今後もこういった発信をたまに行って参ります。


 それでは、また・・・。


 (当ブログも「古今東西」も不定期更新)