ブログの管理人をしてくれている夫のゑRくんによると、当ブログ「重ための話」の読者さまがたは、少し重たく専門的なお話をしても大丈夫な印象があるとのことですので、少しずつわたしの情熱に基づいたものに近寄った話をさせて頂こうかと思っています。今回はわたしの体験を元にお話させていただきます。
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◆ わたしの体験について
大昔、自殺念慮に苦しんでいた頃(これはKindle出版した『自殺について~虐スピ番外編~』の内容の頃)の話です。
(ちなみに「自殺念慮」と「希死念慮」とは異なるもので、後者は「消えてしまいたい」とか「ラクになりたい」といったつらさのことを言います。)
わたしの場合、先天的には明るい性格でしたので、自殺念慮に至ったのは後天的な要素によるものでしたが、そんな自殺念慮思考を無自覚とはいえ自ら強化し続けていた時、ある日突然に、自分の左側50センチから1メートルほどの所に「あるはずのないモノ」が見え始めました。内容については言及を避けます。
わたしは即座に「これは見えたらマズイやつだ」と判断し、徹底無視を選択しました。すると2週間ほどで完全に消失しました。
それから月日がだいぶ経ち、瞑想したり、大自然の中でこの上ない平和を感じたり、結果に一切こだわらない期待感が極まると、ステキなものが見えたり聞こえたりするようになりました。
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以上、簡単に述べました。「共感覚者ですか?」と聞かれたことがあるのですが、これは「共感覚」ではありません。私の場合は「幻覚」です。
なぜ共感覚ではないと言えるのかと言うと、共感覚体験はほぼ常時、自動的に発現しており、再現性は非常に高いのですが、わたしの場合は状態依存、つまり条件が整った時のみに発現するという点において異なるからです。
また共感覚においては自我の関与はほぼありませんが、わたしの場合は観察者のような客観視が可能で、それによって経験の対象や内容が変化するという点においても違いがあるのです。
わたしの場合は共感覚者の人々と近い回路を、共感覚の人は「常時ON」、わたしの場合は「条件付きON」で使っていた、という言い方もできるかと思います。
さて、わたしの体験は、一方は心理的苦痛状態からのもので、見えたものは危険であり不穏なもので、もう一方は心理的平和状態からのもので、見えたもの・聞こえたものは美的だったり楽しかったりするものでした。つまり心理状態が知覚体験の「質」を決める土台となっているのです。
ここでいったんわたしの体験をまとめますと、
「心理状態の変化に伴い、視覚的イメージが自発的に立ち上がることがある。
体験は常に観察対象として扱われ、現実判断や行動の統制は保持されている。」
ということになるでしょう。
大切なポイントとしては、「どちらの体験もわたしは体験に飲み込まれていない」ということです。ここが統合失調症の人々との決定的な違いと言えるでしょう。
これは自己統制や現実検討といった能力が保持されているということです。
◆ 一般的な反応とわたしの場合とスピリチュアル
さて、こういった体験をしたり、また聞いたりすると、一般的には以下のような反応が見られます。
① 神秘的解釈 (←自分、あるいは「この他者」は“神”のような存在と一体化したスゴイ人、といった意味付け)
② 病理化 (←本人のパニックや、他者が感じる不安や恐怖など)
③ 嘲笑 (←主に他者からの反応だが噛み合う心理が自己内にもある可能性がある)
わたしの場合は、自分にとって距離を取るべき体験かどうかという判断のもとに、体験を消失させたり持続させたりを選択しています。つまり「体験の主導権」をわたしが常に握っており、更には「意味付け」をある意味宙ぶらりんにしたまま楽しんでいるのであって、上述の三つのいずれにも陥っていないのです。
わたしは自分の選択で①を選んでいるのですが、それは「面白いから」であり、また自分の中に取り込んでみると自分の人生が健康的・建設的に機能することが確認できたからです。
ですが①の要素をわたしの人生の土台から抜き去ったとしてもさほど支障はないのです。以前にもお伝えしたように、元々わたしはスピ畑の人間ではなく、自分の精神の回復は科学的アプローチと呼べるものと仏教の概念がベースだからです。
ですので多次元宇宙スピリチュアルには感謝しつつも、いつでも引き返せるといった状態です。ほかの理論や選択肢を受け入れることの体制が整っている、という状態でいるのが、最も自分らしい、自分好みの状態のうちのひとつなのです。
とは言えやはり、わたしがスピリチュアルから離れることはないでしょう。それはわたしが神道や仏教といったものに感謝し、敬意を払っているからであり、またわたしの使命(人生のテーマ)のうちのひとつが「科学」と感覚的なものや宗教、信仰といったものの融合であり、統合だからです。
話を戻します。この段階でわたしの体験をまとめてみますと、以下のようになるでしょう。
「強い心理的苦痛の時期には、非日常的な視覚体験が現れ、体験自体はネガティブに感じられた。しかし、「完全無視」という徹底的に距離をおくことによって自然に消失した。平穏な心理状態や瞑想中には、心理的苦痛の時期とは異なる視覚体験が現れ、ポジティブに受容され、生活や行動に支障はなかった。」
◆ わたしの情熱と仮説
ここで、スピリチュアルでよく耳にする「情熱」、つまり今わたしが「やらずにはいられないこと」についてお話します。わたしは自分の体験から「特定の心理や生理、自律神経といった複数の状態因子の組み合わせで、非日常的な知覚体験の質を変えることができるのではないか?」と考えています。
言い方を変えてみると、以下がわたしの仮説となります。
「非日常的な知覚体験は、個人の心理・自律神経などの状態や、受け止め方によって、苦痛的にも、無害にも、美的にも、地続き的に変化しうるのではないか?」
これについて研究することが、わたしの数ある情熱のうちの一つなのです。
◆ 体験を分けるシンプルなもの
科学的に言うと、わたしのネガ・ポジ体験の分水嶺となったのは、「知覚を生成する脳のモード」であり、各種条件によってそれが切り替わったと認識しています。
と言ってもずっと述べてきたようにシンプルなのです。
● 苦痛期・・・危険モードで生成された知覚は「ネガティブ」
● 平和期・・・安全モードで生成された知覚は「ポジティブ」
◆ 各モードの脳の状態
シンプルとは言え、脳で起きていることはまったく異なっています。以下は難しそうに、とか複雑そうに言おうとしているのではなく、単に人の脳の仕組みに基づいた反応を並べているだけで、「そういうものなのだ」という構造の一般的によく知られているものの一部をお伝えしています。
苦痛期における体験については、コルチゾールが高値でノルアドレナリンが優位、偏桃体が過敏になり、予測処理は悲観バイアスに傾いていたと思います。そしてわたしの脳の抑制が一時的に緩み、通常は抑えられていた内部イメージやノイズなどが視覚的な表象として立ち上がり、これをわたしは「見えてはいけないもの」と解釈(即座にメタ認知)した、と考えています。この判断は前頭前野が機能していた証拠とも言えるでしょう。
他方、現在のような平和期における体験については、自律神経が安全側、つまり副交感神経優位で、ポリヴェーガル理論的には腹側迷走神経神経モードであり、ドーパミンやセロトニン値が安定していたと思われます。そしてDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)は静かに統合され、自己と他者の境界が緩やかに、しかし溶け切ることもなく、内的イメージが美的に立ち上がりやすい、という状態ではないかと考えています。シンプルでしょ?
◆ シンプルではありますが…
シンプルではあるのですが、しかし簡単に言っている訳ではありません。これをシンプルに言えるようになるまでに、わたしの場合は虐待被害の後遺症や、個人的な心理的負担などにより、二十年以上の月日を要しました。わたしは自分の内側から逃げ出したり抜け出したりすることができませんし、何よりも、こう見えて(?)とても慎重な性格である上、単独の研究でしたし、またほかにもやらなければならないことが複数ありますので、時間を必要としました。こういったルートをショートカットできる方法はそのうち出るでしょう。しかし今の所、わたしは自分の経験をメインに活かして、コツコツと幻覚体験やその他人生経験全般をポジティブなものに変える方法をお伝えしています。時間と根気は必要となりますが、このルートには安全であるというメリットがあります。
最後になりますが、物事は複雑に考えていい時と、そうではない時があると思います。どちらにもそのようにするメリットはあると思われますが、わたしの場合は「物事はシンプルにできているはずだ」とずっと考えていました。
そのような信念を持っていたことは生まれつきのわたしの特徴でしたが、そういった信念があると、いかに困難で、いかに複雑そうに見えたとしても、抜け出してみるととてもシンプルであったという事実に拍子抜けしたり、悲しさを覚えたりするほどだったりすることもあります。人によりますが、なかには怒りを感じたり、否定したりしたくなる人もおられるでしょう。
しかし、いかにシンプルであったとしても、わたし達人間の苦しい体験の価値が損なわれることはありません。ですので晴れ晴れとした気持ちで、苦しい体験から卒業していただきたいと思っています。そして前に進みましょう。もしも卒業という言葉に引っかかったり、何か抵抗を覚えたりするようであれば、ほかの言葉でも勿論いいのです。ご自分にとってのささやかな幸せの実感を、みなさまがそれぞれに積み重ねていかれますことを心から祈っています。
ではまた・・・。
(当ブログも別ブログ「古今東西」も不定期更新)