平成7年1月17日・午前5時46分。
まだ夜明けの遅いこの時期。
いきなりやって来た強烈な揺れ。
天井が落ちてくるんじゃないかと思い、
無意識で妻と子供の上に覆いかぶさったあの日。
停電でいつもより深い暗闇の中、
しばらくすると消防のサイレンだけが不気味に響きだす。
食器棚は倒れ、
ガラスは割れて散乱し足に踏み場もない状態の中、
数十分たったあとテレビをつけることができた。
画面が映し出していたのは呑気な東京発の報道番組。
高齢者の女性が箪笥の上から落ちてきたもので頭を打ち軽傷・・・
お気楽に、
「ズーム・イン!」なんてやっている。
そんな規模じゃないと思いながら推移を見守っていくうち、
次第にこの地震による被害が甚大なものとわかってきた。
駅舎がつぶれ、
ビルが倒壊し、
阪神高速が横倒しになっていた。
夜、六甲山にデートに行くのによく走っていた道。
あまりの光景に夢であってほしいと思った。
消防車は到着しているのに水が出ないため消防士の方々はただ茫然と眺めるだけ。
この時期の神戸、大阪は冬型の気圧配置が続いてほとんど雨が降らず乾燥していて、
火は衰えることなくますます勢いを増す。
駅舎もつぶれた。
この未曽有の災害に自衛隊の派遣をためらった当時の社会党の党首村山富市には怒りを感じた。
もたもたした国の対応よりも早く動いたのが、
民間のボランティア。
ただ流れなくなったトイレを流すためだけにやってきた高校生たちもいた。
どこに行きますかという職員の質問に、
「ぼくたちウンコ部隊です」と答えていた高校生たちのまぶしかったこと。
マスコミの報道も問題となった。
問答無用で避難所に押し掛けるマスコミ。
どれだけ悲惨な話が聞けるかというのが仕事の価値であるかのようなふるまいにも怒りを覚えた。
この震災を機会に、
耐震に関する建築基準法が厳しくなり、
完全ではないものの大きな地震で家屋が倒壊する被害は減った。
ライフラインの整備、ハザードマップの充実などが重視されるようになった。
しかし28年も経つと、
あの頃の危機感がかなり薄れてきたのも事実だ。
避難袋や食料の備蓄など当たり前にしていたことをしなくなってきている。
震度2とか3とかの地震に未だ敏感に感じてしまうことだけが、
あの時の本当の記憶として身体に沁みついていることのようだ。
その後も日本は、
3.11や豪雨被害など災害と戦い続けている。
今後もいつ起こるかわからない災害が発生するだろう。
それが起きるときにはもう私はいないかもしれない。
だから記憶を語り継ぐ。
人生の黄昏が近くなってきた我々世代の責務なのだと思う。
明るい未来を築いていく者たちのために。