川島雄三監督はどこへ逃げたかった?~幕末太陽傳(1957)の幻のラストシーン | あの時の映画日記~黄昏映画館

あの時の映画日記~黄昏映画館

あの日、あの時、あの場所で観た映画の感想を
思い入れたっぷりに綴っていきます

45歳で夭折した天才監督・川島雄三。

代表作は数々ありますが、

中でも『幕末太陽傳』を最高傑作に挙げる方が多いのではないでしょうか。

 

2010年の10月にわりと詳しめのレビューを書いているのでよかったら読んでください。

 

映画ファンの方なら既にご存知の方がほとんどだと思いますが、

本作のラストシーンは監督川島雄三が本来考えていたものとは違うものとなっています。

 

本作のラストシーンは、

幕末の品川の妓楼「相模屋」の居残りを決め込んだ佐平治がここが引き時と考え宿を飛び出るが、

妓楼の常連客だった杢兵衛に捕まり贔屓の女郎・こはるの墓に案内させられる。

一心にこはるの墓で祈る杢兵衛を尻目に、

佐平次は「地獄も極楽もあるもんけえ。俺はまだまだ生きるんでえ」と捨て台詞を吐き、東海道の松並木を駈け去って行くというものでした。

 

しかし川島監督はこのラストシーンでは斬新な構想を抱いていました。

それは、墓場から飛び出した佐平治がそのままセットを飛び出して、

現代の品川の街へ駆け抜けていく。

そして、そこにそれまでの登場人物たちが現代の格好をしてたたずみ、ただ佐平次だけがちょんまげ姿で走り去っていくというものでした。

 

しかし当時の制作側にそのアイディアは「訳が分からない」ということで却下され、

主演のフランキー堺も反対の意向を示したためにこのラストシーンは実現しませんでした。

 

軽妙で世渡り上手。

高杉晋作からも借金を取り立てるほどの度胸と器量を持ち合わせながら、

肺病を患って暗い側面を持つこの主人公佐平治に難病を抱えていた川島監督は自分自身を投影しているのは明らかです。

 

川島監督は自分の過去を嫌い、

生まれ故郷を嫌っていたといいます。

その反作用だったのか川島監督の作風は例え本作のような幕末を背景にした作品でもどこかモダンな味わいがします。

 

そして、

この作品を制作していたころは、

文芸作を期待していた会社側と川島監督とで意見が合わずぎくしゃくしていたそうです。

(実際この作品を最後に日活を退社しています)

 

そんな現実をぶち壊したい。

本人は『積極的逃避』と語っていたらしいですけど、

忍び寄って来る死の影や会社との確執などから逃げ出したい願望を主人公佐平治に託したのではないでしょうか。

そう考えると、川島監督の当初考えていたラストシーンに説得力が増すような気がします。

(あくまでも想像ですが)

 

佐平治をスパイだと疑った高杉晋作が舟の上で斬ろうとしたシーンでの名セリフ、

怯えるでなく、媚びるでなく、

「へへえ、それが二本差しの理屈でござんすかい」と高杉に挑む。

「ちょいと都合が悪けりゃ『こりゃ町人、命は貰った』と来やがら、どうせ旦那方は、百姓町人から絞り上げたおかみの金で、やれ攘夷の勤皇のと騒ぎ廻っていりゃ済むだろうが、こちとら町人はそうはいかねえ」

「何ッ...?」

「手前一人の才覚で世渡りするからにゃア、へへ、首が飛んでも、動いてみせまさア!」。

 

この時点で佐平治は逃げ出すことを決意していたと思われるが、

一世一代の大啖呵を切って覚悟を決めるところにその『積極的逃避』が象徴されているように思われます。

 

とにかく傑作な本作。

幕末の品川の街のセットが見事ですし、

何より主演のフランキー堺がまさに“いなせ”な演技がカッコイイ。

 

理屈っぽく書いてしまいましたが、

痛快さでも群を抜く面白さの本作。

落語ネタで唯一成功した映画であるともいえると思います。

未見の方にはぜひおススメしたい作品です!

 

「花ニ嵐ノタトエモアルゾ、「サヨナラ」ダケガ人生ダ」(井伏鱒二訳の漢詩『勧酒』より)

川島監督が愛した言葉です。

深い!