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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

第11回優勝校は高松商業学校でした。

今回は、香川県の高松商業高校です。
 
香川県下では甲子園出場数、勝利数とも随一の戦績を誇る強豪校です。高校野球ファンでは「四国四商」の一角としても有名でしょう。
春の選抜高校野球(当時は選抜中等学校野球大会)の第1回優勝校でもあり、翌年夏のこの大会で優勝したことから春夏の両大会で優勝した初の学校となります。
甲子園出場は春27回・夏20回を数え、春夏2度ずつの優勝で計59勝は素晴らしいものですね。平成年間はやや低迷していましたが平成28年春に20年ぶりに出場して準優勝、復活しつつあるようです。
 
県都・高松市の中心部からやや東方の松島町にある学校です。今年で創立120年を迎える伝統校で、議員や市長、上場会社の社長など県の政治経済を支える人物を多く輩出しています。
明治33年に高松市に市立高松商業学校が開校、翌34年に坂出町(現・坂出市)に県立香川商業学校が開校し、明治45年に高松商が吸収される形で合併して香川商が高松市に移転しました。
大正11年に県立高松商業学校と改称し、そのまま学制改革で高松商業高校となって現在に至ります。現在地に落ち着いたのは昭和24年です。
 
校歌は作詞:葛原しげる 作曲:小比賀虎雄で昭和6年制定です。
高松商 (全3番)
 緑に映ゆる 紫雲山
 松に 不易の色も濃く
 しめすは至誠か 剛健か
 やがては 士魂商才を
 矜らん 斯界の中堅我等
 いざや登らん 希望の高嶺
 
校訓を1~3番に散りばめ、自然環境(ここでは紫雲山玉藻浦屋島山)を擬人化?して学生に問いかけるような表現が葛原氏らしい詞ですね。
士魂商才」「富国の小舟」「平和の戦」などが商業校を象徴し、いずれは「斯界の中堅」から更なる高みや世界を目指せと歌われています。
このように詞曲とも素晴らしい校歌ですが、「葛原𦱳作詞校歌集」によると現在はなぜか1番のみ歌っているようです。
また、明治時代の創立から上の校歌制定までの約30年の間に全く校歌が無かったとは考えにくく、いわゆる旧校歌もあったのでは?と思うのですが未調査により不明です。あるいは代わりに応援歌が歌われていたかもしれません。
追記:以前、香川遠征で学校史を閲覧したときに興味深いことが判りました。当初の歌詞は1番最後がいざや登ら、希望の高嶺だったのです。コピーはできませんでしたが当時の譜面でも「イザヤノボラ」とあり登らんの間違いではないことを示しています。歌いにくかったのかどうか不明ですが、早々に「登らん」に変更されたようです。これ以前に校歌が有ったのかどうかは時間切れで確認できませんでした。
 
商業高校ながら大学進学の割合が高く、上位は国公立大学早慶レベルも視野に入り過去には東大や医学部合格者も出すなど、県内でも高レベルにある学校といえます。
部活動も盛んで、他の運動部もサッカー部、バレーボール部、ハンドボール部などが全国でも通用する成績を多く残しています。

第10回大会優勝校は広島商業学校でした。

今回は、広島県の広島商業高校です。
http://www.hiroshima-ch.hiroshima-c.ed.jp/index.html
 
前回までは鳴尾村(現・西宮市鳴尾町)の鳴尾球場で開催していましたが、野球人気の高まりで観客が膨れ上がり、いかにも手狭になったことやグラウンドの水はけが悪かったこと、観客がグラウンドになだれ込む事態が起こったことで本格的な野球場での開催が待たれました。
翌年夏に西宮市の甲子園地区に当時としては最大級の球場、甲子園大運動場(阪神甲子園球場)が建設されたことで高校野球の代名詞『夏の甲子園』がこの第10回大会から始まりました。
 
通称"広商"、広島県を代表する野球強豪校のひとつで、春21回・夏23回の計44回出場しています。とりわけ夏に強く大正13年夏の初優勝を皮切りに6回優勝し、春は1回ですが昭和5年夏、昭和6年春と史上初の夏春連覇を果たしています。準優勝も2回あり、計62勝は広島県では広陵高校に次いで2位ですね。
近年はなかなか出場できませんでしたが、令和元年夏に15年ぶりに出場しました。
 
広島市中区、太田川の枝流・天満川に臨む江波地区の一角の舟入南町にあります。最寄り駅は広電江波線・舟入南電停です。
明治33年開校の広島市広島商業学校として始まり、翌年に県移管して県立広島商業学校と改称しました。当初は今の広島市役所の近くに校舎があったようです。
昭和9年に江波町の現在地に移転し、戦中は陸軍に徴用されたり戦後の一時期他校の商業科に集約され廃校となったりしましたが、昭和29年に広島商業高校として独立開校、昭和35年に現在地に復帰しました。
以来"広商"は広島県のみならず日本、世界の商業界に通用する人材を育てるべく120年の伝統と経験をもって政治・経済・スポーツ多岐にわたって活躍しています。
 
校歌は2つあり、それぞれ第一校歌第二校歌とされています。
戦前に制定され、現在も行事や高校野球などで歌われる第一校歌は作詞:羽場栄太郎 作曲:渡辺弥蔵で大正4年制定です。
広島商 第一校歌 (全4番)
 ああうるわしき 厳島
 潮に立てる 大鳥居
 藻汐に薫る 江波の海
 舟舶つどふ 宇品の津
 今古の俯仰 意気たかし
 ああ広商の わが友よ
 
全体として広島の自然や歴史の中にある学校と学生を歌っています。
鳥居に象徴される厳島や、戦前は干潟となっていて藻塩や海苔の養殖場が広がっていたと言われる江波地区、日清戦争後に軍港として開かれ軍艦をはじめ様々な船舶が出入りしていた宇品港
広島市内からよく見える二葉山はアカマツやシリブカガシなど「緑変わらぬ」常緑樹が多く、太田川や支流の三篠川は中国山地から"真砂土"を流し広島デルタを形成しました。「臥虎山」は比治山のことですが「偉人の碑」とは何でしょうか?大正4年時点だと頼山陽あたりかと思うのですが真実はよく判りません。
3番の冒頭は「音戸の舟歌」が取り入れられています。一丈五尺(約4.5m)の櫓櫂がしわる(撓う)ほどに潮流の激しい音戸の瀬戸を切り開いたという伝説がある平清盛は相国入道、"平相国"とも呼ばれたそうです。その人のように商業の"航海"が厳しくとも堅忍不抜の意気を持って渡りきれ、ということですね。
4番「三星霜」は、戦前は「五星霜」だったと思われます。
追記:作詞者は羽場栄太郎氏ですが、歌い出しのああうるわしき厳島部分だけは当時の宮田校長の作だそうです。
 
第二校歌は作詞:大木惇夫 作曲:飯田信夫で昭和41年制定です。
広島商 第二校歌 (全3番)
 瀬戸内の波は静けく
 和をたもつ 学の聖園
 美しく 厳しく錬え
 栄光の虹を望みて
 積極の躍動ぞよし
 七つの海に夢を懸けばや
 ああ 広商の若人われら
 太陽を常に仰がん
 
この第二校歌の位置付けはどんなものなのでしょうか?この校歌が制定された経緯やどのような場で歌われるのかなどは調査が行き届かず不明です。
追記:作詞者の大木惇夫氏は広商OBで、昭和40年に文芸部主催の会合に出席したのを機縁として校長が第二校歌をと依頼したとされます。大木氏は恩師だった羽場氏への思慕もあり、従来の校歌に取って代わるべきものではないと強調してこの詞を寄せたのだそうです。
大木惇夫氏は戦後数多くの校歌を手がけていて「平和」を積極的に多用していますが、不思議なことにこの校歌にはありません。「和をたもつ」がそれらしいと言えばそうかもしれませんが。
第一、第二とも「ああ広商の…」と歌うことから「広商」は一種アイデンティティのようなものだと感じられます。
第9回大会優勝校は甲陽中学校でした。
前回まで連覇していた和歌山中がこの時も決勝進出しましたが準優勝に終わっています。

今回は、兵庫県の甲陽学院中学・高校です。

甲陽中はこの大会が初出場、以降も旧制では春夏計12回出場、15勝を挙げています。しかし戦後は全国有数の激戦区ということもあり"近くて遠い甲子園"、出場を果たせていません。

高校は西宮市の中央部やや南、甲陽園と苦楽園の間にあります。校地の北を夙川が西から東へ流れやがて南流して"武庫の浦"に出ますが、その直前の香櫨園付近には甲陽学院中学校があります。
高校の募集はしない完全中高一貫校ながら中学校と高校で校地が異なるのは珍しく、旧制時代は甲子園の甲子園球場近くにあったそうです。
関西随一の私立進学校・灘中高を近くに控えながら甲陽学院も高い教育レベルを誇り、毎年の進学実績でも東大30人前後、京大40人前後、他の旧帝大にも多数の合格者を出すほどです。

学校は大正6年に関西教育界の有力者のひとり、伊賀駒太郎氏によって設立された私立甲陽中学校に始まります。ほどなく経営難に陥りましたが、酒造の"灘五郷"のひとつ「白鹿」の蔵元・辰馬本家の援助で立ち直り、辰馬学院甲陽中学校に改称しました。
戦後の学制改革で新制甲陽学院中学部甲陽高校となりましたが、校地が手狭になったため新制甲陽中を香櫨園に設置して中高別学の体制としました。2年後の昭和25年には甲陽学院中学甲陽学院高校と改称しています。
やがて高校のある甲子園周辺が発展して騒音が問題化したため、苦楽園にあった辰馬家の敷地のひとつを譲り受けて昭和53年に現在地に移転しました。平成21年には完全中高一貫校となって現在に至ります。
校歌は作詞:山田在夫 作曲:信時潔で昭和4年制定です。これが現在まで続く学院の校歌です。
甲陽学院 校歌 (全2番)
 嗚呼 青春の血は燃えて
 武庫の老松 春来れば
 高鳴る胸ぞ 若人われら
 妙なるひびき 玉の緒の
 理想の調 かなでつつ
 輝くのぞみ 心ぞ勇む

ちなみに高校と中学では校歌が違うのですが、これとは別に学院全体の"院歌"として「甲陽学院のうた」というものがあり、普段の行事などではこちらを歌うことが多いようです。
作詞:竹中郁 作曲:清水脩で、創立40周年記念事業の一環とあることから制定は昭和32年頃でしょうか。
甲陽学院歌「甲陽学院のうた」 (全3番)
 大地のほてり われらをつつむ
 大地のいぶき われらにひびく
 愛なり 知恵なり 光なり
 海に問えば 海は答う
 大空に 大空に
 指もてえがく 希望のつばさ
 甲陽 甲陽 甲陽学院

作詞者の竹中郁氏は生涯のほとんどを神戸で過ごされたという詩人で大阪や兵庫を中心に校歌を作られています。自然と人の調和、共生を歌ったものが多い傾向ですね。

現在は応援歌となっている「武庫の原頭」も、当初は山田存夫氏が作詞、作曲を山田耕筰氏が担当して"校歌"(原題は甲陽中学校歌)として作られたようです。
ただ、山田在夫氏自身か学校関係者によって当初の歌詞を少々改めて"校歌"から"運動歌"に、さらに応援歌として伝わっているということです。
第7回、第8回と史上初の連覇を果たしたのは和歌山中学校です。
今回は、和歌山県の桐蔭高校です。

第1回大会から関西、紀和代表として14年連続出場、選抜大会も第1回から11年連続出場と無類の強さを誇りました。
海草中・海南中が台頭していた時期もありましたが、和中は旧制だけで春夏計30回出場して36勝、優勝3回と準優勝2回と全国屈指の強豪校でした。
戦後は桐蔭高校となった直後の昭和23年をはじめ春夏6回甲子園出場し、23年夏と36年夏にともに準優勝しています。最近では平成27年春に21世紀枠で出場しました。

和歌山市の中心部の一角にある和歌山城の南500mほどに位置し、明治12年に旧制和歌山師範学校に併設された和歌山中学校が前身です。
和歌山尋常中学校など何回かの改称を経て明治34年に県立和歌山中学校に落ち着きました。また、途中で徳義中学校と合併しています。
当初は和歌山城のすぐ南に、明治22年に紀州藩主が和歌山城内の天守北西部を寄贈され独立校舎(西の丸校舎)を新築移転、さらに大正4年に現在地に移転しています。
和中の校歌は作詞:多紀仁之助 作曲:斉藤佳三で大正8年制定ですが、初めて歌われたのは翌年の創立40周年記念祝賀会とあります。
旧制・和歌山中 (全6番)
 海南 ここに幾春秋
 歴史に花の香をとめて
 清き理想を かざしつつ
 つどひて護る 自助の園

自助の園」とは"天は自ら助くる者を助く"という自助の精神を表したもので、明治初期のベストセラーからの引用とされているようです。

もうひとつの前身校は、明治24年に開校した市立和歌山高等女学校です。
この和歌山高女については不明な部分が多く、桐蔭HPにも詳細が無いため省略とします。戦中に和歌山空襲で爆撃を受けて全焼、他校の校舎を借りて続けたようですが学制改革で廃校となったということです。
市立和歌山第一高女、第二高女、県に移管した県高女それぞれあったようですが、ここでは県高女の校歌を紹介します。
作詞:葛原しげる 作曲:梁田貞で昭和10年制定です。
旧制・和歌山高女 (全3番)
 日ねもす夜すがら 只一すぢに
 行く手をかへず 紀の大川の
 注ぎて息まぬ 誠実もて
 心の鏡 磨くかな
 いそしみ学びて 幸の少女子われら

昭和23年の学制改革で和中と県高女を統合して桐蔭高校となりました。星林高校の記事でも触れたように、和歌山市ではいくつかの案から校名を選択するという形となり当校の校長が桐蔭を採用したとされています。桐蔭HPでは松野校長の命名となっています。
"桐蔭"は「桐と鳳凰」も影響しているのでしょう。中国の故事では聖天子が出るとき鳳凰が現れ桐に宿るとされ、霊鳥はそこから羽ばたくというものです。東京高等師範学校(現・筑波大学)の校章となりそれにあやかったとも言えそうですね。
校歌は作詞:西川良三郎 作曲:竹中重雄で昭和23年制定です。
桐蔭高校 (全3番)
 新たなる 世紀に目覚めて
 紀の国の雲に 呼ぶよ光
 見よ さぐる真理のあかり
   あかり 眉を照らす
 ゆかし桐蔭 かをる学園
 若きわれら ひたに学ぶ

和歌山県の公立ではトップクラスの進学校で、多くの生徒が近畿地方を中心に国公立、私立大学に進学しています。平成19年には中高一貫校として桐蔭中学校が開校しました。
部活動も盛んで、野球部のほかサッカー部ボート部なども全国大会上位の実績があります。

こぼれ話として、和中の校歌ですが特筆すべきは漢文の校歌があることでしょう。実は旧制時代では日本語でなく漢文で作られた校歌もいくつか存在していました。
これまで調査した範囲では、この和歌山中の他に広島の呉一中、長野の岩村田中にあったことが判明しています。しかし実際に曲が付けられ歌われたものは無いようです。
桐蔭校史では卒業生の追憶として漢詩の校歌と作詞者の簡単な紹介があり、作詞者の多紀氏は漢学の大家でしたので、先に漢詩の校歌を作り、その書き下し文をさらに推敲して和中校歌としたのではとの見解を述べています。
旧制・和歌山中 漢文校歌(全6番)
 海南於茲幾春秋 千古竹帛花香留
 清風名節為我表 自助学団凝不流

徳義中学校にも触れておきましょう。
紀州藩最後の藩主・徳川茂承によって紀州藩校の流れを汲む学校として明治7年に設立され、明治34年に県立徳義中学校となったあと大正3年に和歌山中に吸収合併されました。
校歌は徳義中史や桐蔭史など他の資料には見当たらなかったため、制定されなかったとみられます。
高校野球・戦前シリーズでは既に紹介した学校もちらほらありますね…

第2回大会優勝校は慶應普通部(現・慶應義塾高)でした。
https://ameblo.jp/hakutsuru45/entry-12493065908.html

第3回大会優勝校は愛知一中(現・旭丘高)でした。

第4回大会は、開催直前に富山県から全国に波及した米騒動で鳴尾球場近くでも焼き打ちが発生し、治安悪化を重く見た朝日新聞社により中止となりました。
試合は行われませんでしたが、この時の代表校も出場回数に数えられています。

第5回大会優勝校は神戸一中(現・神戸高)でした。

第6回大会優勝校は関西学院中学部でした。
今回は、兵庫県の関西学院中学部・高等部です。

全国的には関西の難関私立四大学の通称、"関関同立"の一角として有名でしょう。
南北にくびれた形の西宮市の南側、北東部の甲山東麓の上ケ原にメインキャンパスがあり、他に三田や聖和などいくつかのキャンパスがあります。上ケ原キャンパスは歴史ある時計台や「スパニッシュ・ミッションスタイル」の建築物が並び、ポプラなど多くの樹種が美しく関学の学業環境は申し分ありません。
発音は「かんせいがくいん」、英語表記では"KWANSEI GAKUIN"となり、野球部のユニフォームも「KWANSEI」です。

戦前は春5回・夏6回の出場を数え、大正9年夏と昭和3年春の優勝、大正6年夏の準優勝など12勝を挙げていますが、戦後は平成10年春に63年ぶり、平成21年夏に70年ぶりの出場を果たし夏で1勝して甲子園に校歌「空の翼」が流れました。

現在の関西学院高等部の源流とされるのは、明治22年に米国南メソジスト監督協会の宣教師だった W.R.ランバスによって設立された関西学院普通学部まで遡ります。
関西学院創立時は神学部普通学部があり、校地は予算の関係で菟原郡原田村(現在の灘区王子町)にありました。"原田の森キャンパス"と呼ばれる旧キャンパスは、パンダで有名な王子動物園やスタジアム、神戸文学館を含む王子公園の敷地だったのです。
この頃歌われた"校歌"は「Old Kwansei」で、明治33年制定です。これは米国東部の名門プリンストン大学のカレッジソングの歌詞と旋律を一部改編したものだそうです。
関西学院 「Old Kwansei」(全3番)
 Tune ev'ry heart and ev'ry voice,
 Throw ev'ry care away;
 Let all with one accord rejoice,
 In praise of Old Kwan-sei;
 cho. In praise of Kwan-sei Gakuin;
 In praise of Old Kwan-sei;
 Her sons will give, while they shall live,
 Banzai, Banzai, Kwan-sei !

大正4年に普通学部を関西学院中学部と改称し、昭和4年の西宮上ケ原移転を経て以来、現在に至るまで上ケ原のシンボル的な存在です。
戦争中の本土空襲と阪神大震災により一部のキャンパスが被災したり、学園紛争が発生するなどの苦難を越えて近畿の雄のひとつであり続けています。

現在の校歌である「空の翼」は作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰で昭和8年制定です。
関西学院大学設置の記念事業で作られたもので関学OBの山田耕筰氏に作曲を依頼し、山田氏が昵懇の間柄だった北原白秋氏に作詞を依頼し…という過程でできたということです。
関西学院 「空の翼」 (全3番)
 風に思う空の翼 
 輝く自由 Mastery for Service
 清明ここに道あり我が丘
 関西 関西 関西 関西学院
 ポプラは羽ばたく いざ響け我等
 風、光、力 若きは力ぞ
 いざ いざ いざ 上ヶ原ふるえ
 いざ いざ いざ いざ 上ヶ原ふるえ

Mastery for Service」とは、大正3年に高等学部長に就任したC.J.Lベーツ氏が提唱した言葉で「奉仕のための練達」と訳され、関西学院全体のスクールモットーとされているそうです。
2番「眉にかざす聖き甲…」はエンブレムを、3番「新月ここに冴えたり…」は三日月の校章を端的に表したものですね。
全体的に豊かな自然と風光明媚な環境で学び鍛える学生達の溌剌とした姿を歌っています。ただ現在では2番はあまり歌わないそうです。

他にも50周年、60周年を記念して校歌が作られたとあります。
「緑濃き甲山」は作詞:由木康 作曲:山田耕筰で昭和14年制定です。
関西学院 「緑濃き甲山」 (全3番)
 緑濃き甲山 気高くそびえ
 陽に映ゆる校舎 さやかに立てり
 樹々、白亜、光 一つに合える
 美しのまなびや 関西学院

「A SONG FOR KWANSEI」は作詞:Edmund Blunden 作曲:山田耕筰で昭和24年制定です。
関西学院 「A SONG FOR KWANSEI」 (全3番)
 That we may both receive and give,
 May live to learn, and learn to live,
 Kwansei, we throng, -
 To you we throng, not first nor last,
 Rejoicing in your fruitful past,
 Through seasons clear or overcast
 Still true and strong.

この他にも数曲が作られたそうですが、いずれも現在は歌われていないようです。