病院のコンサル稼業をやっていましたが、電子カルテ、手術進捗管理システム、治験を含む病院業務を包括的に処理する統合情報システム開発プロジェクトを指揮してきた眼科領域では、現場レベルで業務を理解しています。医療ではクリニカルパスと呼ばれる治療のためのプロセスがあり、これに沿って間違いのない治療を行うようになっています。手術でも術式(手術の種類)によって決められたパスがあります。白内障手術を施行することになった場合には、患者さんにとって適切な手術結果をだすために綿密な検査を行います。術式が決まった時に画面に表示すパスの例を下図に。糖尿病の検査もすることが分かると思います。

この様な診察、検査をしてからようやく手術に取り掛かることになりますが、患者が医師(獣医)と会話のできない犬だった場合、このプロセスを踏むうえでどの様な問題があるか考えてみましょう。

 

《犬が人間の言葉を理解できないことによる問題》

白内障の初期には混濁の起こる場所によって、近視や遠視、乱視が進行することがあります。検影法(スキアスコピー/レチノスコピー)により他覚的屈折値を把握し、矯正視力検査にて矯正に必要なレンズの度数から近視や遠視、乱視の程度がわかります。一番視力の出るレンズを患者さんに装用してもらい測定しますが、検査員は条件を変えながら『これはどうですか?』と見え具合を患者さんに聞きます。しかし、患者さんは犬なので、検査員の言っていることが分かりません。もちろん、症状を説明することができません。ワン!ウォ~、クンクンと言っても人間にはわかりません。ということは最初に行わなければならない基本的な検査ができないということです。これだけでもアウトです。

 

《犬の返事を聞かなくてもできる検査》

犬の白内障手術をやっているという動物病院のホームページを見ると、細隙灯顕微鏡検査(さいげきとうけんびきょうけんさ)をやると書いてあります。細いスリット状の光を眼に当てて顕微鏡で拡大して観察すると、透明な組織の内部構造までよくわかります。これなら『見え易くなりましたか?』などと聞く必要がないので、犬に対しても使えます。もっとも人間の場合には、『少し上を見てください』、『右の方を見てください』などと言いながら、患部の症状をより詳しく見極めます。犬の場合にはそれができません。しかし、おおよその水晶体混濁の状況を把握することはできます。その程度です。

犬はどう思うのか分かりませんが、猫が検査している写真を見つけたので紹介します。

獣医でもやってやれないことはありませんが、毎日多くの患者を診ている眼科病院の医師と、たまに検査するだけで練度の点で難がある獣医とでは、症状の把握技術の違いが歴然としてあると思った方が無難です。全ての診療科目を診る獣医と、専門領域がはっきりし、研鑽・実務経験を積んでいる医師との知識経験、練度の差は埋めようがありません。

 

《眼内レンズの選択》

一般的な眼内レンズは人工的な固定焦点(※)なので、眼の筋肉を調節して水晶体の厚さを薄くしたり厚くして近くを見たり遠くを見たりということはできません。つまり、近くを見えるようにするのか、遠くを見えるようにするのかの選択をします。近くが見えるようなレンズにした場合で遠くを見る際や、逆に遠くを見えるようにしたレンズを挿入した場合で近くを見る時には眼鏡が必要になります。しかし、犬は眼鏡をかけられないので、手術で眼内レンズを挿入した犬は、近くに合わせたレンズにした場合には、遠くは見えません。その反対に遠くに合わせたレンズでは、近くが見えないことになります。仮に物理的に眼鏡をかけられるとしても、どの様な度数のレンズが良いのかを検査員が患者さんと対話しながら決めるという人間相手の調整はできないので現実的ではありません。※多焦点レンズもあります。

 

《眼内レンズの度数》

眼鏡ができないので眼内レンズだけに頼ることになります。このレンズも近くを見るのか遠くに焦点を合わすのかで違ってきますが、これは飼い主に決めてもらうしかありません。しかし、肝心のレンズの度数をどうするかです。既述のように、現状の見え方がどうなっているのかを知る由がありません。見え具合を確認できないまま挿入する眼内レンズの度数を決めるなどという乱暴なことは人間の患者相手にはできませんが、犬の場合には、それをやってしまうことになります。犬にとっては嫌な思いをして手術した結果、度数の合わない眼鏡をかけさせられたということになります。度数の合わない眼鏡をかけるとクラクラしたり、ひどい場合は吐き気を伴うこともありますが、症状を言えない犬は、ただ耐え、尻尾をふりますが、きっと酷い目に遭っていると思うでしょう。研究熱心な獣医が頻繁に眼科医局に来て医師に聞いている場面に遭遇したことが何回かありましたが、説明を聞いて結局あきらめたようです。そもそも説明を聞いて白内障対応ができるはずがなく、ましてや手術ができるようになるはずがありません。眼科の手術は他科に比べて非常に繊細な手技が必要なことがあまり知られていませんが、がん摘出手術のように少し多めに切除するなどということはできません。mm単位の繊細な手技が必要です。人間相手の眼科医でさえ上手い下手があるのに、眼科領域での専門的知識、実戦経験の圧倒的に少ない獣医にそれができるか?素朴に疑問に思います。

《では、どうすればいいのでしょう》

手術はしない方が良いことは理解したものの、治療法はないのでしょうか。白内障の治療として、点眼薬や飲み薬もありますが、ごく初期の白内障をのぞいて、水晶体の混濁を透明にするほどの効果はありません。あっても、せいぜい進行を遅らせる程度です。しかも毎日使い続けなければなりません。しかし、手術で症状がなくなる人間と違い、犬の場合には手術してわざわざピントの合わないレンズを挿入され、四六時中クラクラしている状態になってしまう手術よりも、進行を遅らせる点眼薬、飲み薬を処方してもらう方が犬にとっては幸せではないかと思います。ちなみに友人の眼科医は愛犬に人間用の点眼薬を使っていました。

 

《補足・・・眼科病院検査員からのアドバイス含む》

人間と同じように緑内障を併発したり、水晶体の濁り具合により、細隙灯で眼底が透見出来ない場合があります。その場合は、眼内レンズは挿入せず、白内障手術で水晶体の濁りだけを除去する処置は有効な場合もあります。しかし、ここまで眼科領域の専門知識・判断と検査技術を持っている獣医がどれだけいるかは未知数です。人間の場合は研修医の指導方法や豚眼(とんがん/豚の眼球)を使った手技の訓練など、実際に手術に至るまでの教育訓練、指導体制が確立していますが、犬の白内障の検査をし、手術をする獣医はどの様にして養成されているのでしょう。なお、有名な北大の動物医療センタでも年間手術件数は全科合わせて700件とのことです。

このうち何件が白内障の手術か分かりませんが、私の関係していた眼科病院の年間白内障手術件数は、約3千件でした。

犬の眼科領域の専門医を認定する組織(クリック)もありますが、問診できず、見え具合を言えない物言わぬ犬に対して適切な度数の眼内レンズを選び、調整できるかという人間の患者相手なら当たり前のことができないという基本的な部分をクリアできません。
 

参考ブログ
・愛犬をがんで失わないために/血液検査結果の見方⇒クリック
・獣医から『好きな物を食べさせてください』と言われた時⇒クリック
・愛犬の白内障手術は止めた方が良い、可哀想(その2)⇒クリック

 

※ご質問はosugisama@gmail.com、あるいはsugi@sugi-tec.tokyoにお願いします。