忘れちゃうひととき -2ページ目

忘れちゃうひととき

青臭い駄目人間の、イカ臭い日常を、小便臭い文章で、つらつらつらと書き綴っていく予定です。それ以上でもそれ以下でもそれだけでもありません。

今更ながらではあるが、カメラを買ったんである。
ニコンのD5000。デジタル一眼レフという代物である。
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恐ろしいことに、僕は今までデジカメを所持していなかった。
写真を撮ることの必要性を特に感じていなかったし、別段興味があったわけでもない。
例えば、旅先などで写真に収めておきたい場面に出くわしても、「この景色はね、ココロのシャッターを押して、記憶というアルバムにそっと仕舞っておけば、あたし、それでいいの……」という控え目且つ硬派な姿勢を崩さずにいた。

でもさ、なんか流行ってんじゃん。
デジイチを首からぶら下げて、下北沢界隈をぶらりと歩いて、それっぽい光景をそれっぽく撮れたら、すげぇそれっぽいじゃん。
モテそうじゃん。
彼女出来そうじゃん。
「二人で写真デートしよっか! フフフッ」みたいなの、正直アリじゃん。
アリアリじゃん。

そして何より、目で見ている、視覚で捉えている以外の世界が、実は僕らの前には常に広がっていて、カメラのレンズを通すとその一端を捕まえて切り取ることが出来るのだ。
森山大道の写真集を眺めていると、そんなことを思ったりする。
切り取ってみたいじゃないか。
見てみたいじゃないか。
僕が普段、目で見ている以外の世界を。

そんなこんなで、僕はエイヤッと現金一括払いでデジイチを購入した。
これから少しずつ少しずつ勉強していきつつ、世界の色々な表情を切り取っていく次第である。

デジイチ持っている人、ご指導ご鞭撻をお願いしたく存じます。
もしも、アナタが素敵な女の子ならば、ぜひとも僕と写真デートに繰り出しましょう。

だって、その為に買ったんだもーん。


♪今の気分的一曲
午後のパノラマ / かせきさいだぁ≡
今日は暖かい。

珍しく午前中に目覚めた僕は、僕を捕らえて離さないベッドという名のアウシュビッツから、「このままここに横たわっていると、二度寝という毒ガスにやられて、いよいよ真っ当な人間としての生活を送れなくなってしまう」と奮起し、後ろ髪を引かれながらも脱出することに成功した。

今日は暖かい。
ジーン・ケリーが傘を振り回しながら「I'm singing in the rain~♩」と歌い出しそうな程に雨が降っていた昨日とは打って変わって、「晴れ!」とまではいかないものの、頗る過ごしやすい薄曇りの空模様である。

ラーメンを食べに行くことにした。
なんだか面倒臭いので、髭も剃らなかった。
ペインターデニムにカーディガン、ボサボサ頭に不精ヒゲ、古着屋で買った缶バッジ付のミニショルダーという出で立ちだ。
元スタイリストでコーディネートにうるさい母は、僕を一瞥すると「ヒッピーみたい。フラワームーブメントも桜も、もう散っちゃったわよ」などと言い、果物ナイフの先端に剥いたばかりの林檎を突き刺して、僕の口元へそれをグイッと寄せた。

林檎をシャクリシャクリと噛みながら「いっふぇまひりまふ」と母に告げて玄関を出ると、僕は自転車に跨った。

春の風が吹く。
今日は暖かい。
いや、正確には、自転車を漕いで前進しているので、僕に空気抵抗が生じる。
小学校の前を通る。
体育の授業中なのだろう。
体育着に身を包んだ小学生たちが体育座りでジャージ姿の先生の話をボーッと聞いている。
小学校のグラウンドをぐるりと囲うように立ち並んだ桜から、桜の花びらがヒュルリーラヒュルリーラと歌いながら舞い散る。
花は、殆ど散ってしまっていた。
ほんの戯れのつもりで、「花びらに当たったら、ラーメン屋に到着するまでずっと立ち漕ぎをする」という発作的自分ルール縛りのゲームを開始すると、スタート直後に花びらが一枚カーディガンにくっついた。

今日も、僕には何も起こらない。
何処かで誰かに何かが起きているかもしれないし、これから起こるかもしらない。
でも、僕には今のところ何も起こらない。
それが良いのか悪いのかは分からないが、僕は立ち漕ぎをし過ぎたせいで太腿がひどく痛い。

まぁ、何はなくとも、今日は暖かい。
それだけは本当だ。


おまけ写真。
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まだ元気だった頃の桜さんの姿。
享年約二週間。


♩今の気分的一曲
風をあつめて / はっぴいえんど
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僕は珈琲が好きだ。
ビールよりも好きだ。ワインよりも日本酒よりも、珈琲が好きだ。

あまりにも珈琲が好き過ぎて、偏執的に飲んでしまったこともある。

大学生の時の話だ。
三人の学友とともに、高田馬場のミスドを訪れた。
ミスドで大事なことは、美味しいドーナツが食べられることでも、何故か飲茶が食べられることでも、CMキャラクターがいつの間にか所ジョージから相武紗季に替わっていたことでもない。
珈琲がおかわり自由であることだ。
話したい盛りの大学生である。
夕方に店に入った僕らは、どうでもいいことからどうでも良くないことまで、時が経つのも忘れて喋りまくった。
その間に灰皿に積まれた煙草の吸殻の本数も、トイレに立った回数も、同席していたあの子が僕をチラリと盗み見た回数も覚えてやしないが、飲んだ珈琲の数だけは明確に記憶している。
十四杯である。
結果的に、僕らは閉店までそのミスドに居座った。

体が変調をきたしたのは、帰りの電車の中である。
突然、痙攣が起こった。
頭が妙な不安感でいっぱいになり、今すぐにでも喉元を掻っ切って死にたくなった。
視線が定まらない。
異常なほどの喉の渇きを覚え、途中の駅の自動販売機で水を買った。
どうしたことかと、フラフラとした足取りで家に帰り、兎にも角にも素早くベッドに入ってその日は眠った。

翌日になってネットで調べてみると、どうやら軽度の脱水症状とカフェイン中毒を併発していたようだった。
珈琲には利尿作用がある。
体内の水分を排出するばかりで、珈琲以外を口にしなかったことが直接の原因であったらしい。
恐ろしいことよ。
僕は、珈琲を偏執的に愛すあまり、珈琲に殺されそうになったのだ。
太宰治のように麗人と入水自殺を図るのならまだしも、小汚い高田馬場のミスドで珈琲とともに心中はしたくない。
その後、言うまでもなく僕は珈琲の飲み過ぎには気を払うようになった。

しかし、「珈琲に殺されかけた」という稀有な経験をしたことがあるにも関わらず、僕の珈琲に対する愛情は変わることなく続いている。
愛煙家である僕にとって、煙草と抜群の相性を誇る珈琲は「一服する」という行為に耽るにあたり、なくてはならない存在だ。

また、喫茶店で本を読みながら煙草をゆっくりと吸い、傍にある珈琲を時折飲むという時間は、何事にも代え難い、僕にとって愛すべき悠久のひとときなのである。


ところで、外に出ると満開の桜が風に踊っているのを見ても分かるように、時候は文句なしに「春」である。
出会いと別れの季節であるというのに、僕には何の出会いも訪れない。
僕の運を吸い取るかのように、僕の友人知人の間ではこれ見よがしに出会いが舞い降りてきて、文字通りに我が世の春を謳歌しているようだが、肝心の僕には何の春の便りも届かない。

いいかげん、僕も青春の伴侶となるべく女性を求めて、外へ飛び出した方が良さそうだ。
願くば、相性の良い女性がいい。
昼においても夜においても、相性の良さというのはより良い男女関係を構築し、維持するに際して最も重んじられる事項の一つである。
大事なことなので、もう一度記そう。相性の良い女性がいい。

そう。例えば、珈琲と煙草のように。


♪今の気分的一曲
新しいYES / Salyu