偏執的珈琲愛、および出会いと別れの季節について | 忘れちゃうひととき

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青臭い駄目人間の、イカ臭い日常を、小便臭い文章で、つらつらつらと書き綴っていく予定です。それ以上でもそれ以下でもそれだけでもありません。

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僕は珈琲が好きだ。
ビールよりも好きだ。ワインよりも日本酒よりも、珈琲が好きだ。

あまりにも珈琲が好き過ぎて、偏執的に飲んでしまったこともある。

大学生の時の話だ。
三人の学友とともに、高田馬場のミスドを訪れた。
ミスドで大事なことは、美味しいドーナツが食べられることでも、何故か飲茶が食べられることでも、CMキャラクターがいつの間にか所ジョージから相武紗季に替わっていたことでもない。
珈琲がおかわり自由であることだ。
話したい盛りの大学生である。
夕方に店に入った僕らは、どうでもいいことからどうでも良くないことまで、時が経つのも忘れて喋りまくった。
その間に灰皿に積まれた煙草の吸殻の本数も、トイレに立った回数も、同席していたあの子が僕をチラリと盗み見た回数も覚えてやしないが、飲んだ珈琲の数だけは明確に記憶している。
十四杯である。
結果的に、僕らは閉店までそのミスドに居座った。

体が変調をきたしたのは、帰りの電車の中である。
突然、痙攣が起こった。
頭が妙な不安感でいっぱいになり、今すぐにでも喉元を掻っ切って死にたくなった。
視線が定まらない。
異常なほどの喉の渇きを覚え、途中の駅の自動販売機で水を買った。
どうしたことかと、フラフラとした足取りで家に帰り、兎にも角にも素早くベッドに入ってその日は眠った。

翌日になってネットで調べてみると、どうやら軽度の脱水症状とカフェイン中毒を併発していたようだった。
珈琲には利尿作用がある。
体内の水分を排出するばかりで、珈琲以外を口にしなかったことが直接の原因であったらしい。
恐ろしいことよ。
僕は、珈琲を偏執的に愛すあまり、珈琲に殺されそうになったのだ。
太宰治のように麗人と入水自殺を図るのならまだしも、小汚い高田馬場のミスドで珈琲とともに心中はしたくない。
その後、言うまでもなく僕は珈琲の飲み過ぎには気を払うようになった。

しかし、「珈琲に殺されかけた」という稀有な経験をしたことがあるにも関わらず、僕の珈琲に対する愛情は変わることなく続いている。
愛煙家である僕にとって、煙草と抜群の相性を誇る珈琲は「一服する」という行為に耽るにあたり、なくてはならない存在だ。

また、喫茶店で本を読みながら煙草をゆっくりと吸い、傍にある珈琲を時折飲むという時間は、何事にも代え難い、僕にとって愛すべき悠久のひとときなのである。


ところで、外に出ると満開の桜が風に踊っているのを見ても分かるように、時候は文句なしに「春」である。
出会いと別れの季節であるというのに、僕には何の出会いも訪れない。
僕の運を吸い取るかのように、僕の友人知人の間ではこれ見よがしに出会いが舞い降りてきて、文字通りに我が世の春を謳歌しているようだが、肝心の僕には何の春の便りも届かない。

いいかげん、僕も青春の伴侶となるべく女性を求めて、外へ飛び出した方が良さそうだ。
願くば、相性の良い女性がいい。
昼においても夜においても、相性の良さというのはより良い男女関係を構築し、維持するに際して最も重んじられる事項の一つである。
大事なことなので、もう一度記そう。相性の良い女性がいい。

そう。例えば、珈琲と煙草のように。


♪今の気分的一曲
新しいYES / Salyu