子規紀行文の中の俳句(11) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

「散策集」(1)

 

ここでは、先の芭蕉シリーズと同様に、正岡子規が全国を旅しながら残した紀行文(年代順に、「水戸紀行」「かけはしの記」「旅の旅の旅」「高尾紀行」「鎌倉一見の記」「はて知らずの記」「散策集」)の中に記載されている俳句(及び短歌)について紹介しており、その7回目として「散策集」の中の俳句142句を紹介する。

 

「散策集」は、子規が病気療養のため、明治28年(1895年)8月下旬から10月中旬まで松山へ帰郷した際に、松山に住む俳句仲間たちと吟行に出かけ、俳句を詠んで記録した紀行文である。子規は、同年8月25日に療養先の神戸から松山へ帰省し、8月27日から10月17日までの52日間を、当時松山中学へ英語の教師として赴任していた夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)で過ごした。その間、9月20日、21日、10月2日、6日、7日に日帰りで、友人と、あるいは一人で松山市内や郊外、道後界隈へ吟行に出かけて142句を詠んだ。以下、これら142句を3回に分けて紹介するが、最初に9月20日午後、友人の柳原極堂(碌堂)と二人で松山市内や石手寺、道後へ出かけた時に詠んだ45句を紹介する。

 

◎明治28年9月20日午後、柳原極堂(碌堂)とともに

〇松山市内(玉川町:愚陀仏庵)から石手川土手(堤防)沿い、石手寺への途中で詠んだ21句

 杖によりて 町を出づれバ 稲の花     

 秋高し 鳶舞ひしづむ 城の上

 大寺の 施餓鬼過ぎたる 芭蕉哉      

 秋晴れて 見かくれぬべき 山もなし

 秋の山 松鬱として 常信寺         

 草の花 少しありけば 道後なり

 高縄や 稲の葉末の 五里六里

 砂土手や 山をかざして 櫨紅葉   

 砂土手や 西日をうけて 蕎麦の花

 蜻蛉の 御幸寺見下す 日和哉    

 露草や 野川の鮒の ささ濁り

 虫鳴くや 花露草の 昼の露     

 肥溜の いくつも並ぶ 野菊哉

 秋澄みたり 魚中に浮て 底の影         

 底見えて 魚見えて秋の 水深し

 飛びハせで 川に落ちたる 螽哉

 蓼短く 秋の小川の 溢れたり

 兀山を こえて吹きけり 秋の風

 五六反 叔父がつくりし 糸瓜哉

 馬の沓 換ふるや櫨の 紅葉散る

 六尺の 竹の梢や 鵙の声

 

〇石手川の土手(堤防)から石手寺へ向かう時に詠んだ4句

 野径曲れり 十歩の中に 秋の山

 ほし店の 鬼灯吹くや 秋の風

 南無大師 石手の寺よ 稲の花

 二の門は 二町奥なり 稲の花

 

〇石手寺山門の前の茶店で休息しながら詠んだ3句

 駄菓子売る 茶店の門の 柿青し

 人もなし 駄菓子の上の 秋の蝿

 裏口や 出入にさはる 稲の花

 

〇橋を渡って石手寺(四国八十八箇所の五十一番札所)に参詣した時に詠んだ3句

 見あぐれば 塔の高さよ 秋の空

 秋の山 五重の塔に 並びけり

 通夜堂の 前に粟干す 日向哉

 

〇石手寺大師堂で休息している時に、お御鬮(おみくじ)が近くに落ちて来て、開くと「二十四番凶」(病事は長引くが、命にはさわりなし)とあり、我が身に当っていると不思議に思い詠んだ2句

 身の上や 御鬮を引けば 秋の風

 山陰や 寺吹き暮るる 秋の風

 

〇石手寺を出て道後の方へ向かい、帰途に就いて詠んだ3句(「毛見の人」は、農作物の出来を調べる役人のこと)

 駒とめて 何事問ふぞ 毛見の人

 芙蓉見えて さすがに人の 声ゆかし

 にくにくと 赤き色なり 唐辛子

 

〇御竹藪(道後公園;湯月城跡)の堀に沿って歩いている時に詠んだ6句

 古濠や 腐つた水に 柳ちる

 水草の 花まだ白し 秋の風

 秋の山 御幸寺と申し 天狗住む

 四方に秋の 山をめぐらす 城下哉

 稲の香や 野末ハ暮れて 汽車の音

 雛頭の 丈を揃へたる 土塀哉

 

〇補足の3句(「避病院」は、伝染病患者を隔離収容した病院のこと)

 稲の香に 人居らずなりぬ 避病院

 秋風や 何堂彼堂 弥勒堂

 護摩堂に さしこむ秋の 日脚哉