子規紀行文の中の俳句(10) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

「鎌倉一見の記」

 

ここでは、先の芭蕉シリーズと同様に、正岡子規が全国を旅しながら残した紀行文(年代順に、「水戸紀行」「かけはしの記」「旅の旅の旅」「高尾紀行」「鎌倉一見の記」「はて知らずの記」「散策集」)の中に記載されている俳句(及び短歌)について紹介しており、その6回目として「鎌倉一見の記」の中の俳句14句、短歌2首を紹介する。

 

「鎌倉一見の記」は、明治26年(1893年)3月、子規が25歳の時に、鎌倉で保養中の陸羯南を訪問し、3日間鎌倉を散策した紀行文である。すなわち、前回紹介した「はて知らずの記」の約4ヶ月前の明治26年3月25日、新橋駅から夜汽車に乗った子規は藤沢の宿に泊まり、翌26日、世話になっている「日本新聞」社長の陸羯南を見舞うために鎌倉の由比ガ浜へ向かった。そして羯南の家に28日までの3日間滞在し、鎌倉の神社仏閣など(鶴岡八幡宮、建長寺、星月夜の井、長谷観音堂、鎌倉大仏、頼朝の墓など)を散策した。以下、子規が詠んだ俳句14句と短歌2首を紹介する。

 

〇3月25日新橋から夜行列車に乗り、藤沢までの風景を詠んだ句

 蛙鳴く 水田の底の 底あかり

 

〇藤沢で宿泊し、翌26日早朝に目が覚めると、裏の藪で鳴く鶯の声がうれしくて詠んだ2句

 鶯や おもて通りは 馬の鈴
 鶯や 左の耳は 馬の鈴

 

〇1番列車で鎌倉へ行き、由比ガ浜の陸羯南を訪れるまでの道中で浮かんだ3句

 岡あれば 宮宮あれば 梅の花
 家一つ 梅五六本 ここもここも
 旅なれば 春なればこの 朝ぼらけ

 

〇陸羯南と久しぶりに対面し、歌や俳句の話などをした際に、目の前に見える風景を詠んだ2句

 陽炎や 小松の中の 古すすき
 春風や 起きも直らぬ 磯馴松

 

〇その後一人で鶴岡八幡宮を参詣し、見下ろすと数百株の古梅が盛りを過ぎ散っているのが哀れに思えて詠んだ句

 銀杏とは どちらが古き 梅の花

 

〇その後建長寺を参詣し、荘厳な風景を詠んだ句

 陽炎と なるやへり行く 古柱

 

〇円覚寺を訪れた後、由比ガ浜に戻り疲れを癒したが、翌27日明け方に陸羯南ともう一人(高橋勝)の三人で浜辺から星月夜の井(極楽寺切通の登り口にある虚空蔵堂側の井戸)を訪れた際に詠んだ句

 鎌倉は 井あり梅あり 星月夜

 

〇陸羯南らとともに長谷観音堂を参詣し、そこから見渡す山の名所や古跡を見て詠んだ句

 歌にせん 何山彼山 春の風

 

〇陸羯南の案内で日朗(日蓮の弟子)の土窟や鎌倉大仏などを訪れた際、七百年前の昔を思い浮かべながら詠んだ句

 大仏の うつらうつらと 春日かな

 

〇その夜は陸羯南の家で宿泊し、翌28日、一人で雪の下の古跡を訪れた際に詠んだ歌2首

 高どのの 三つば四つばの あと問へば 麦の二葉に 雲雀なくなり
 いつのよの 庭のかたみを 賤か家の 垣ねつづきに 匂ふ梅の香

 

〇頼朝の墓を訪れた後、鎌倉宮を参詣すると、胸がふさがり涙があふれて落ちてきた、その様を詠んだ句

 梅が香に むせてこぼるる 涙かな

 

(その後、泣く泣く鎌倉を去り、再び帰る俗界の中で筆を採り「鎌倉一見の記」とした)