俳句の里だより2

俳句の里だより2

俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

「水戸紀行」

 

先のシリーズでは、芭蕉がその後半生(41歳~46歳:貞享元年[1684年]~元禄2年[1689年])に全国を旅しながら残した紀行文(「野ざらし紀行」「鹿島紀行(鹿島詣)」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」)の中に記載されている俳句(及び短歌)を紹介したが、ここでは同様に、正岡子規が全国を旅しながら残した紀行文(年代順に、「水戸紀行」「かけはしの記」「旅の旅の旅」「高尾紀行」「はてしらずの記」「鎌倉一見の記」「散策集」)の中に記載されている俳句(及び短歌)について紹介する。

 

なお、正岡子規の場合には、芭蕉とは異なり、その後半生は脊椎カリエスにより寝たきりの人生を送ったため、紀行文は元気に歩くことが出来た若い時代(21歳~27歳:明治22年[1889年]~明治28年[1895年])に書かれた。また、芭蕉の場合と同様に、詠まれた俳句(短歌)は、子規以外の人々のものも含まれている。それぞれの紀行文に記載されている俳句(及び短歌)は、「水戸紀行」(俳句:5句、短歌:2首)、「かけはしの記」(俳句:19句、短歌:9首)、「旅の旅の旅」(俳句:36句、短歌:1首)、「高尾紀行」(俳句:34句、短歌:0首)、(俳句:「はてしらずの記」(俳句:112句、短歌:17首)、「鎌倉一見の記」(俳句:14句、短歌:2首)、「散策集」(俳句:142句、短歌:0首)である。

 

ところで、これら元気な時代の紀行文とは異なり、子規は外出が困難になっても随筆を著し(「松羅玉液」「墨汁一滴」「仰臥漫録」「病状六尺」)、その中で俳句や短歌を詠んでいる。また、人力車で短時間外出し(「亀戸まで」)、短歌を詠んでいる。これらの俳句や短歌についても、別途紹介したいと思っているが、まずは上記の紀行文の中の俳句(及び短歌)について紹介する。

 

最初に「水戸紀行」であるが、明治22年4月3日から4月7日まで、水戸が実家の学友菊池謙二郎に会うため、友人の吉田匡の二人で、子規の愛読書だった「東海道中膝栗毛」を模して、水戸へ勝栗毛(徒歩旅行)した出来事を滑稽をまじえて記述したものであり、4月6日に小舟で那珂川を下った時の悪影響で、寄宿舎へ帰宅後1ヶ月して大喀血をし、「卯の花を めがけてきたか 時鳥」「卯の花の 散るまで鳴くか 子規(ほととぎす)」などの句を作り、「子規」を俳号とした曰くつきの旅行となった。以下、俳句7句、短歌2首で作者はいずれも子規である。

 

〇小金駅の近くで、7,8歳の女の子が小さな犬の子を背中に負っているを見て面白く思い詠んだ句

 犬の子を 負ふた子供や 桃の花

 

〇取手の町を過ぎて行くと鶯の声が聞こえてきたので、頼山陽の七言絶句「亀背嶺聞鶯」の結句「独有渠伊声不訛」 という句を思い出して詠んだ句

 鶯の 声になまりは なかりけり

 

〇土浦の公園にある総宜園から南を見ると霞ケ浦が見渡せるが、雨で向こう岸が見えず詠んだ句

 霞みながら 春雨ふるや 湖の上

 

〇筑波山を左に眺めながら行くと、共に山も行く心地がして離れそうにない思いがして詠んだ句

 二日路は 筑波にそふて 日ぞ長き

 

〇筑波山が雲に隠れたり、雲の合間から男体、女体の散切り頭と島田髷が見えるのが洒落た趣があると思い詠んだ歌

 白雲の 蒲団の中に つつまれて ならんで寐たり 女体男体

 

〇水戸の宿屋で夕食を食べるが美味しくないので、外へ出て蕎麦屋で食べて満足し宿屋へ戻り詠んだ歌

 おこっては ふくれるふぐの 腹の皮 よりて聞き人は 笑ふなるらん

 

〇4月6日に舟で那珂川を下り大洗へ行き、海岸へ出て広々とした太平洋の海を見つめながら、近くの海岸の岩に波が砕け散るのを見て詠んだ句

 アメリカの 波打ちよする 霞かな

 

翌7日の一番汽車に乗って正午頃に上野駅に戻って来た。ただ、友人の菊池謙二郎とはすれ違い会うことは出来なかったが、ともかくも無事に膝栗毛(徒歩旅行)を終え「めでたし、めでたし」で「水戸紀行」は結ばれる。