芭蕉紀行文の中の俳句(11) | 俳句の里だより2

俳句の里だより2

俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

奥の細道(2)

 

本シリーズは、芭蕉が晩年に旅に出て綴った紀行文(「野ざらし紀行」「鹿島紀行(鹿島詣)」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」の中の俳句について紹介している。前回は「更科紀行」の中の俳句(全部で13句)を紹介したが、ここでは、いよいよ芭蕉最後の紀行文であり、最も有名な「奥の細道」の中の俳句(全部で62句)を紹介する。

 

前回(第1回)では、門人曾良と江戸の深川を元禄2年(1689年)3月27日に出立し、奥州街道を通って日光、白河、須賀川などを経て、5月2日の飯塚の里(飯坂温泉)までに詠まれた15句(「草の戸も 住みかはる代ぞ 雛の家」「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」「あらたふと 青葉若葉の 日の光」「田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな」など)と和歌1首を紹介したが、今回(第2回)は、5月4日の笠島(宮城県名取市)から5月29日の最上川までに詠まれた15句を紹介する。ここには奥の細道の中でよく知られた俳句が多くある。

 

〇5月4日、笠島(名取市愛島)にあるという藤中将実方(藤原実方)の墓を訪れようとしたが(実方は、馬に乗ったまま笠島道祖神前を通過したところ、馬は突然倒れて死亡、その下敷きになって実方も死去)、このところの五月雨で道は大変通りにくく、体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ることとした。しかし、蓑輪、笠島という地名も五月雨に関係していて面白い(蓑、笠)と思い詠んだ句(句意は、実方中将の墓のあるという笠島はどのあたりだろう。こんなにも五月雨が降りしきるぬかり道の中では、方向もはっきりしない)
 笠島は いづこ五月の ぬかり道

(後に西行法師がここを訪れ、実方の形見として薄の穂波だけとなっている姿に涙して詠んだ歌「朽ちもせぬ その名ばかりを とどめおきて 枯野のすすき 形見にぞ見る」)

 

〇同5月4日、岩沼の武隈の松を見物したが、この武隈の松について、奥州への旅立ちに際し、門人の挙白が餞別に詠んだ餞別句(句意は、芭蕉翁がそちらに着く頃には、もう桜も散ってしまうだろうが、せめて武隈の松だけはお見せしたいものだ)

 武隈の 松みせ申せ 遅ざくら (挙白)

 

〇江戸出立から3ヶ月越しに武隈の松を訪れると、松の根は土際で二つに分かれて昔の姿のままであったが、かつて能因法師が訪れた時には、伐採されたのか武隈の松は無かった。そのため、能因法師は「武隈の 松はこのたび 跡もなし 千年を経てや 我は来つらむ」と詠んで武隈の松を惜しんだ。しかし、今はまた立派に松が育ち、素晴らしい松の眺めである。そんな武隈の松に対して、門人挙白が詠んだ餞別句に応えて芭蕉が詠んだ句(句意は、桜の咲く弥生の三月に旅立ったころからこの武隈の松を見ようと願っていた。3ヶ月越しにその願いが叶い、目の前にしている。言い伝えどおり、根元から二木に分かれた見事な松だ)

 桜より 松は二木を 三月越し

 

〇同5月4日、あやめを葺く日(5月の節句)に仙台に入り、数日間宿泊することにしたが、ここで画工の加右衛門と親しくなり、松島や塩竈の名所旧跡を絵に描いてプレゼントしてくれた。また、紺の鼻緒をつけた草鞋を二足、旅の餞別に贈ってくれたので詠んだ句 (句意は、あやめ草を葺く日の今日、民家ではそれを軒にさすが、旅に出ている私は加右衛門に貰った紺の染め緒を草鞋の緒に結ぼうという、加右衛門に対する感謝の句)

 あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒

 

〇5月8日、仙台を出立して多賀城の「壺の碑」や「末の松山」、塩釜などを訪れ、5月9~10日に舟で松島を周遊した。芭蕉は感激のあまり句を詠めなかったが、その時に曾良が詠んだ句(句意は、松島の海上を鳴きながら渡って行くほととぎすよ、せめてこの男性的な景観に伍していこうというのであれば、せめてお前の姿を鶴に借りて飛んでくれ)

 松島や 鶴に身をかれ 時鳥 (曾良) 

(芭蕉は松島で他にも「島々や 千々に砕きて 夏の海」と詠んだが、奥の細道にはこの句を採用しなかった)

 

〇瑞巌寺を参詣、石巻から北上川を上って一関を経て5月13日に平泉へ到着、ここで奥州藤原三代(清衡・ 基衡・秀衡)の繁栄や、源頼朝の軍勢により滅亡した藤原泰衡・源義経のことなどを思い浮かべ、杜甫の『春望』「国破れて山河あり、城春にして草木深し」との想いに涙して詠んだ句(句意は、奥州藤原氏や義経主従の功名も今は一睡の夢と消え、ただ夏草が茫々と繁っているのみ、儚い人間の無常が身に染むことだ)

 夏草や 兵どもが 夢の跡

 

〇同じく、曾良が詠んだ句(句意は、白い卯の花を見ていると、弁慶らと共に義経の家臣である白髪の兼房が、槍をふるって戦っている姿が脳裏に浮かんでくることだ)

 卯の花に 兼房みゆる 白毛哉 (曾良)

 

〇同5月13日、平泉の中尊寺光堂と経堂を見物、藤原三代の頭首の像や棺などを見て、また、所有していた宝物の数々は散りうせ、扉や柱が朽ち果てていても、金色堂が何とかその姿を保っているのを見て詠んだ句(句意は、今まで光堂が金色の姿のまま残ったのは、全てを濡らし朽ちさせる五月雨も、光堂の気高さに遠慮して濡らさず降り残したからなのだろうか)

 五月雨の 降り残してや 光堂

(芭蕉は中尊寺で他にも「蛍火の 昼は消えつつ 柱かな」と詠んだが、奥の細道には採用されなかった)

 

〇平泉から鳴子温泉、そして尿前の関を越えて出羽の国へ向かう途中、なかなか関守の通行許可が下りず、結局は国境の番人の家にしばらく泊まることになり、そこでに詠んだ句(句意は、山中で泊めてもらった家はみすぼらしく、寝ていると蚤や虱に苦しめられ、その上厩の近くなので馬が尿をする音が聞こえてくる)

 蚤虱 馬の尿する 枕もと

 

〇5月17日に尾花沢に到着し、門人の鈴木清風を訪ねた。ここで数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、またさまざまに手厚くもてなしてくれたので、芭蕉と曾良が詠んだ4句 (句意は、1句目が「この涼しい宿にいると、まるで自分の家にいるようにくつろげます」との清風への感謝句、2句目が「養蚕小屋の蚕室の床下に大きなひき蛙がいる。これが野太い声で鳴いている。出てきて手持ち無沙汰な私たちの相手をしておくれ」、3句目が「尾花沢の名産である紅の花を見ていると、女性が化粧に使う眉掃きを想像させる艶やかさがあり、可憐で美しい」、4句目が「養蚕に従事する土地の人々の姿は、遥か昔の古代の人々のような純朴さに溢れている」)

 涼しさを 我が宿にして ねまる也

 這出よ 飼ひ屋が下の 蟾の声

 眉掃きを 俤にして 紅粉の花

 蚕飼する 人は古代の すがた哉 (曾良)

 

〇5月27日(太陽暦では7月13日)、尾花沢を出発して山形の立石寺(山寺)に夕方到着して山上の御堂に上ると、岩上の十二院は扉を閉じて物音一つしない。風景は静寂であり、心が澄み渡るのを覚えて詠んだ句(句意は、ああ何という静けさだ。この山寺のある山の中では、ただ蝉の声だけが聞こえてくるが、それが一層この夏の深閑とした雰囲気を深めてくれる)

 閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声

 

〇5月29日夜、最上川に面した大石田の船宿を経営する高野平左衛門 (一栄)方で行われた句会で詠んだ芭蕉の冒頭の発句(句意は、おりからの五月雨を集めて、最上川は満々とみなぎり奔流となって流れていることだ)

 五月雨を 集めて早し 最上川

(当初は「五月雨を 集めて涼し 最上川」だったが、後に「涼し」を「早し」と変えて奥の細道に採用した)