芭蕉紀行文の中の俳句(10) | 俳句の里だより2

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奥の細道(1)

 

本シリーズは、芭蕉が晩年に旅に出て綴った紀行文(「野ざらし紀行」「鹿島紀行(鹿島詣)」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」の中の俳句について紹介している。前回は「更科紀行」の中の俳句(全部で13句)を紹介したが、ここでは、いよいよ芭蕉最後の紀行文であり、最も有名な「奥の細道」の中の俳句を紹介する。

 

「奥の細道」は、「更科紀行」の約7ヶ月後の元禄2年[1689年]3月27日、芭蕉46歳の時に門人曾良を伴い江戸を出立し、奥州・北陸の各地を巡り、8月20日過ぎに岐阜の大垣に着くまでの、約150日(総距離は約2400km)にも及ぶ長旅である。旅の目的は、歌人の能因法師や西行法師の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、彼らの詩心に触れることであった。門人曾良と江戸の深川を3月27日に出立し、奥州街道を通って日光、白河、須賀川、仙台、松島、平泉、尾花沢、立石寺、月山、酒田、象潟、新潟、出雲崎、市振、金沢、永平寺、敦賀などを経て大垣までの旅だった。この間に、詠まれた俳句は全部で62句、その内、芭蕉が詠んだのは50句(残りは曾良10句、挙白1句、低耳1句)だった。なお、俳句の他に和歌が2首(仏頂和尚、西行法師)詠まれている。以下に、これら62句(及び和歌2首)を4回に分けて紹介するが、その序文(前文)はあまりにも有名である(以下にその抜粋を)。まずは、最初の15句と和歌1首を。

 

「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取る物手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、」

 

〇上記の序文に続いて詠んだ句(句意は、戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう)

 草の戸も 住みかはる代ぞ 雛の家

(なお、この発句に続いて、表八句(百韻形式の連句の最初の8句)を庵の柱に書き残したが、現存していない)

 

〇千住で見送りの人々と別れ、「前途三千里」の長旅に出る不安を思うと、目に泪があふれて詠んだ句(句意は、春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ)

 行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

 

〇草加、室の八島を過ぎ、3月30日(実際は4月1日)に日光(二荒山)に到着、翌日に日光東照宮を参詣した時に詠んだ句(句意は、ああなんと尊いことだろう、「日光」という名の通り、青葉若葉に日の光が照り映えているよ)

 あらたふと 青葉若葉の 日の光

 

〇同じく、日光連峰の黒髪山(男体山)を眺めると、霞がかかり雪がまだ残っているのを見て、曾良が詠んだ句(句意は、旅に出発する時に髪を剃って坊主の姿となったが、今また4月1日衣更えの時期に、その名も黒髪山に至り、この旅にかける決意を新たにするのだった)

 剃り捨てて 黒髪山に 衣更 (曾良)

 

〇同じく、日光東照宮から2.5km上ったところにある落差30mほどの「裏見の滝」を見物して詠んだ句(句意は、滝を見ていると、夏行(4月16日から90日間水垢離などをする僧侶の修行のこと)に籠ったような気分になった。そういえば、もうそろそろ夏行の始まる季節だ)

 暫時は 滝に籠るや 夏の初め

 

〇4月3日、那須野で馬を借りて進んで行くと、子供たちが二人馬の後を追ってきた。一人は少女でその名を「かさね」と言う。聞きなれないが可愛い名前なので、曾良が詠んだ句(句意は、かさねとはとても可愛らしい名前だが、花ならさしずめ八重ナデシコの名前といったところだろう)

 かさねとは 八重撫子の 名なるべし (曾良)

 

〇4月4日、黒羽藩の城代家老浄坊寺某の館を訪ね、ここで宿泊しながら数日過ごした後、近くの修験光明寺に招かれて修験道の開祖役小角を祀る行者堂を拝んだ際に詠んだ句(句意は、この那須野の夏山を越せばもう奥州だ。光明寺に安置されている役小角が履いたという高下駄を拝み、遥かな奥州への旅の無事を祈ろう)

 夏山に 足駄を拝む 首途哉

 

〇4月5日、栃木県黒羽の臨済宗雲巌寺の奥の山にある芭蕉の禅の師、仏頂和尚の座禅修行の跡を訪ねたが、以前芭蕉が師から松の炭で岩に書いておいた、と聞いていた仏頂和尚が詠んだ歌

 たてよこの 五尺にたらぬ 草の庵 むすぶもくやし 雨なかりせば (仏頂和尚)

 

〇雲巌寺の奥山にある仏頂和尚の座禅修行の跡を訪ねると、石の上に小さな庵が岩屋にもたれかかるように建っているのを見て詠んだ句(句意は、夏木立の中に静かな庵が建っている。さすがの啄木鳥も、この静けさを破りたくないと考えてか、この庵だけはつつかないようだ)

 木啄も 庵は破らず 夏木立

 

〇4月19日、黒羽から殺生石(玉藻前が九尾の狐としての正体を暴かれ、射殺されたあと石に変化したという伝説)に向かう際に、黒羽の家老浄法寺氏のはからいで馬で送ってもらうことになった。すると馬の鼻緒を引く馬子が「短冊に1句したためて欲しい」というので、馬子にしては風流なこと求めるものだと感心して詠んだ句(句意は、広い那須野でほととぎすが一声啼いた。その声を聞くように姿を見るように、馬の頭をグッとそちらへ向けてくれ。そして馬子よ、ともに聞こうじゃないか)

 野を横に 馬引き向けよ ほととぎす

 

〇4月20日、蘆野の里にある、西行法師が「道のべに 清水ながるる 柳かげ しばしとてこそ たちどまりつれ」と詠んだ柳を訪ねた際に詠んだ句(句意は、西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨に耽っていると、早乙女たちが田植えをしているのが見える。田んぼ一面植えてしまったので、私(芭蕉)たちも名残り惜しいが立ち去り旅を続けよう)

 田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな

 

〇4月21日、ようやく白河の関に来た。ここは陸奥守竹田大夫国行が白河の関を越えるのに能因法師の歌「都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」に敬意を払って、冠と衣装を着替えて超えたという話を藤原清輔が書き残しているが、それを踏まえて曾良が詠んだ句(句意は、白川の関を越える際に竹田大夫国行は衣装を着替えたというが、私たちはそこまではできないので、せめて卯の花を頭上にかざして敬意をあらわそう)

 卯の花を かざしに関の 晴着哉 (曾良)

 

〇4月22日に白河の関を越えて須賀川に入り、等窮の所に数日泊めてもらったが、等窮は白河の関で「どのような句を作りましたか」と尋ねられたので、それに応えて詠んだ句(句意は、白河の関を超え奥州路に入ると、まさに田植えの真っ盛りで農民たちが田植え歌を歌っていた。そのひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった)

 風流の はじめや奥の 田植歌

 

〇この須賀川の宿場のすぐ傍に、大きな栗の木の下に庵を作り隠遁生活をしている僧がいた。西行法師が「山深み 岩にせかるる 水ためん かつかつ落る 橡ひろふほど」と詠んだ深山の生活はこんな具合だったのであろうと思えたので、懐紙に「栗という文字は西の木と書いて、西方浄土に縁があるというので、行基菩薩は一生涯、杖にも家の柱にも栗の木を用いられた」と感想を書きとめた。それを踏まえて詠んだ句(句意は、栗の花は地味であまり世間の人に注目されないものだ。そんな栗の木陰で隠遁生活をしている主人の人柄をも表わしているようで、何とも趣き深い)

 世の人の 見つけぬ花や 軒の栗

 

〇須賀川、二本松、福島を経て、5月2日、源融の歌「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆへに みだれんとおもふ 我ならなくに」で名高い「もじ摺りの石」を訪ねて忍ぶの里へ行った。村の子供たちが「もじ摺り石は、昔はこの山の上にあったが、旅人が麦畑を踏み荒らしてこの石に近づき、石の具合を試すので、これはまずいと谷に突き落としたので石の面が下になっている」と話したことに感心して詠んだ句(句意は、「しのぶ摺」として知られる染物の技術は今はすたれてしまったが、早苗を摘み取る早乙女たちの手つきに、わずかにその昔の面影が偲ばれる)

 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺

 

〇5月2日、飯塚の里鯖野(福島市飯坂温泉)にある佐藤庄司の旧跡や近くの古寺(医王寺)を訪れた際、医王寺には義経の太刀・弁慶の笈(背中に背負う箱)が保管され、寺の宝物となっていたので詠んだ句(句意は、弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の節句には紙幟とともにそれらを飾るのがよいだろう。武勇で聞こえた二人の遺品なのだから、端午の節句にはぴったりだ) 

 笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟