笈の小文(2)
ここでは、芭蕉が晩年に旅に出て綴った紀行文(「野ざらし紀行」「鹿島紀行(鹿島詣)」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」の中の俳句について紹介している。前回は、「鹿島紀行(鹿島詣)」の中の俳句(全部で16句、うち芭蕉の句は7句)及び和歌1首と連歌1首を紹介したが、今回は次の紀行文である「笈の小文」の中の俳句を紹介する。
「笈の小文」の1回目では、貞享4年(1687年)10月25日、芭蕉44歳の時に一人で江戸を出立してから、東海道を上り尾張・熱田へ、そこで門人越人を伴って伊良湖岬で杜国を見舞い、再び鳴海・熱田・名古屋で当地の俳人たちから歓迎を受けて句会を開き、年末に伊賀上野へ帰郷して年を越すまでの俳句15句(「旅人と 我が名よばれん 初しぐれ」「冬の日や 馬上に氷る 影法師」「鷹一つ 見付て嬉し いらこ崎」など)を紹介した。それに続き2回目では、翌貞享5年(1688年)の正月から、3月中旬に吉野の桜を見ようと思い立つまでの15句を紹介する。
〇大晦日の夜は、今年最後の空の名残を惜しもうと酒を飲んで夜更かしして、元日の朝は寝坊してしまい詠んだ句
二日にも ぬかりはせじな 花の春
〇立春を過ぎた1月13日、伊賀上野の門人風麦亭で詠んだ風麦への挨拶句
春立ちて まだ九日の 野山哉
〇同じく、伊賀上野の初春の冬枯れの景色を詠んだ句
枯芝や ややかげろふの 一二寸
〇伊賀の阿波の庄という所に東大寺大仏殿を再建した俊乗上人(俊乗房重源)の旧跡(新大仏寺)があるが、今は一丈六尺の大仏は埋ずもれてしまい、大仏の下の礎石が残っているのみ。そんな光景を見て詠んだ句
丈六に かげろふ高し 石の上
〇その昔仕えた藤堂家の句会に招かれて詠んだ句。かつて藤堂新七郎(蝉吟)邸に出入りしていた時、爛漫と咲いていていた桜の花が、今なお20年前と変わらぬ姿で爛漫と咲いており、桜を見ているとさまざまなことが思い出される。
さまざまの事 思ひ出す 桜哉
〇2月4日、伊勢神宮外宮参拝の時に、西行の「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」歌を思い浮かべながら詠んだ句
何の木の 花とは知らず 匂哉
〇その昔、増賀上人は伊勢神宮を参拝した折、私欲を捨てろという神のお告げを得て、着ていたものを全部脱いで門前の乞食に与えてしまったとの故事を踏まえ、自分(芭蕉)は増賀上人のように裸になるには未だ二月の寒風の中じゃ無理だと詠んだ句(如月を更に衣を着る季節としゃれた句)
裸には まだ衣更着の 嵐哉
〇行基が開いたという伊勢の菩提山神宮寺を訪れると、すでに荒廃して山野となり見る影もなく、野老芋(とろろ芋)を掘る村人に、この山寺に伝わる悲しい物語を聞かせてくれと思い詠んだ句
この山の かなしさ告げよ 野老掘
〇伊勢神宮の俳人龍尚舎(龍野伝右衛門照近)を訪れた際に詠んだ挨拶句(句意は、救済法師が詠んだ「草の名は 所によりて 変るなり 難波の蘆は 伊勢の浜荻」を踏まえて、蘆の名はここではなんと言うのか尋ねてみよう)
物の名を 先づとふ蘆の 若葉哉
〇伊勢の俳人網代民部雪堂(足代民部弘員)を訪れた際に詠んだ挨拶句(雪堂の亡き父の弘氏(神風館)は有名な談林派の俳人で、句意は、梅の木にさらに宿り木が継がれて見事に花開かせている。そのように、あなたも父上から風雅の気質を受け継いで、見事に花開かせていますね。梅の木が父神風館を、咲いた梅の花が息子雪堂を指す)
梅の木に なほやどり木や 梅の花
〇伊勢の大江寺境内にあった二条軒で催された句会(草庵の会)で詠んだ句であり、恐らくは、周りには里芋畑が青々と茂っていて、寺の山門付近は葎がうっそうと繁っていたと思われる。
芋植ゑて 門は葎の 若葉哉
〇2月15日の涅槃会に伊勢神宮を訪れた時に、神社の垣根の内側には梅が一本も無い。なぜかと神官に聞くと「もともと梅は一本も無く、ただ物忌の子良の館(詰所)の後に一本だけある」と教えてくれたので詠んだ句
御子良子の 一本ゆかし 梅の花
〇同じく、伊勢神宮は当時仏教との混交を忌み嫌っていたが、なぜかこんな所に仏の涅槃像があったので詠んだ句
神垣や 思ひもかけず 涅槃像
〇3月中旬、伊勢で出迎えてくれた杜国(童子となって道案内になろうと「万菊丸」と名乗る)と二人で吉野の桜を見ようと出立するが、それに先立ち笠の裏側に「乾坤無住同行二人」と書いてそれぞれが詠んだ句(吉野の桜を見ようと思い立ったのは、西行の歌「吉野山 昨年の枝折の 道かへて まだ見ぬ方の 花をたづねむ」)
吉野にて 桜見せうぞ 檜の木笠 (芭蕉)
吉野にて 我も見せうぞ 檜の木笠 (杜国:万菊丸)