芭蕉紀行文の中の俳句(3) | 俳句の里だより2

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野ざらし紀行(3)

 

ここでは、芭蕉が晩年に旅に出て綴った紀行文(「野ざらし紀行」「鹿島紀行(鹿島詣)」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」の中の俳句について紹介している。前回は、最初の旅である「野ざらし紀行」の中の俳句(全部で45句)の内、1回目に続いて2回目の16句を紹介したが、ここでは残りの14句を紹介し、「野ざらし紀行」の俳句の紹介を終えることとする。

 

「野ざらし紀行」は、芭蕉が41歳の時(貞享元年[1684年]8月)に門人の千里を伴い江戸を出立して東海道を上り、伊勢や故郷の伊賀上野、奈良、京都、名古屋などを訪れ、帰りは中山道を通って、翌年の貞享2年[1685年]4月に江戸へ戻るまでの9ヶ月に及ぶ旅の記録である。前回の2回目では、不破の関(現在の関ヶ原付近)で「秋風や 藪も畠も 不破の関」と詠み、大垣の木因宅では「死にもせぬ 旅寝の果てよ 秋の暮」と詠み、桑名付近の浜辺では「明けぼのや しら魚白き こと一寸」と詠んだ。

 

以下の3回目では、小関越えの途中で「山路来て 何やらゆかし すみれ草」と詠み、琵琶湖で「辛崎の 松は花より おぼろにて」と詠み、門人土芳と19年ぶりに再会して「命二つ 中に生きたる 桜かな」と詠み、「野ざらし紀行」の最後に長旅から戻ってホッとして「夏衣 いまだ虱を 取り尽さず」と詠んだ。

 

〇東大寺二月堂参籠のために故郷の伊賀上野から奈良へ向かう途中で詠んだ句(最後の「薄霞」の代わりに「朝霞」とする本もあり)

 春なれや 名もなき山の 薄霞

 

〇奈良の二月堂に籠って詠んだ句(二月堂修二会の主要行事が「お水取り」である)

 水取りや 氷の僧の 沓の音

 

〇京に上って三井秋風の鳴滝の山荘を訪れた際に詠んだ2句(芭蕉はしばらくこの山荘に逗留、2句目は三井秋風への挨拶句)

 梅白し 昨日や鶴を 盗まれし

 樫の木の 花にかまはぬ 姿かな

 

〇伏見の西岸寺の住職である任口上人(当時80歳の老僧)に逢った時に詠んだ挨拶句

 我が衣に 伏見の桃の 雫せよ

 

〇伏見から大津へ向かう小関越えの途中、ふと路傍にすみれが咲いているのを見て詠んだ句

 山路来て 何やらゆかし すみれ草

 

〇朧に霞む琵琶湖の湖面を眺めながら詠んだ句

 辛崎の 松は花より おぼろにて

 

〇滋賀の水口で、伊賀上野の門人土芳と19年ぶりに再会(当時土芳は29歳)した時に詠んだ句(「生きる」の代わりに「活きる」もあり:「生きる」の場合は作者の想いを、「活きる」なら桜の花が活けてあったという情景描写)

 命二つ 中に生きたる 桜かな

 

〇去年の秋から行脚している伊豆蛭ケ小島の僧斎部路通が自分(芭蕉)を追って駆けつけ、尾張まで同行した際に詠んだ句

 いざともに 穂麦くらはん 草枕

 

〇同行の僧斎部路通から、鎌倉円覚寺の住職大顛和尚(門人;其角の参禅の師)が今年1月に死去したことを聞き、和尚が梅をこよなく愛していたので、梅に代わって卯の花を拝み涙に暮れながら詠んだ句

 梅恋ひて 卯の花拝む 涙かな

 

〇名古屋の門人杜国(当時28歳)と別れる際に、詠んで杜国に贈った句(句意は、芥子に止まっていた蝶が飛び立った。そのとき一輪の花びらがはらはらと落ちていった。あれは、蝶が別れに当って形見に羽をもぎ落としたのだ。白芥子を杜国に、蝶を芭蕉自身になぞらえている)

 白げしに はねもぐ蝶の 形見哉

 

〇熱田の門人桐葉子(林七左衛門)宅に二度目の投宿となり、これから江戸へ戻る際に感謝を込めて詠んだ別れの句

(句意は、牡丹蘂の奥深くもぐって甘い蜜を十分吸った蜂が、やがて名残惜しげに、その蘂の中をかき分けて這い出てくることだ。蜂は芭蕉を、牡丹しべは七左衛門または彼の家族を指す)

 牡丹蕊ふかく 分出づる蜂の 名残哉

 

〇甲斐の旅路を行き暮れて、とある人家に立ち寄り詠んだ句(句意は、穂麦をもてなされた駒(馬)とともに疲れを癒しすことができた)

 行駒の 麦に慰む やどり哉

 

〇4月末に江戸の芭蕉庵に戻り、8ヶ月間もの長旅がやっと終わりホッとして詠んだ句

 夏衣 いまだ虱を 取り尽さず