大和物語の中の和歌(10) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

第141段~第147段

 

このシリーズでは、「伊勢物語」に続き、平安時代中期(10世紀後半~11世紀初期)に成立した歌物語である「大和物語」(全173段、作者や成立年は不明)の中で詠まれた和歌(295首)について、第1段から順に紹介している。前回は、第124段~第140段までの25首を紹介したが、ここでは第141段~第147段までの25首を紹介する。

 

なお、前回でも記したように、これまで紹介した第1段から第140段までが、当時の貴族社会の歌物語を記した前半(第一部)であり、今回以降に紹介する第141段から最後の第173段までが、過去の(伝説)歌物語を記した後半(第二部)に相当する。すなわち、「生田川伝説」(147段)、「蘆刈説話」(148段)、「立田山説話」(149段)、「姥捨山伝説」(156段)などが知られている。

 

●第141段「浪路」

〇宰相「よしいゑ」の兄弟(大和国の掾の職)は筑紫から新しい妻を迎えて元妻と一緒に暮らしていたが、他国へ出かけた時に新妻が忍んで別の男と逢ったので、それを誰かに咎められたため、筑紫の新妻が詠んだ歌

 夜半にいでて 月だに見ずは 逢ふことを 知らず顔にも 言はましものを

 

〇新妻の行動に元妻は夫に何も言わなかったが、夫は人から新妻のことを知って「その男と自分とどちらを好きなのか」と尋ねた時に新妻が応えて詠んだ歌

 花すすき 君がかたにぞ なびくめる 思はぬ山の 風は吹けども

 

〇もう男は作らないと言っていた新妻に、ある男が手紙を寄こしたので、新妻は男に返事を書き、また元妻にも手紙を出してそれに添えて詠んだ歌

 身を憂しと 思ふ心の こりねばや 人をあはれと 思ひそむらむ

 

〇夫の心が変わり、新妻を以前のように愛さなくなったので、新妻は筑紫へ帰ることとなり、元妻と夫は見送りに山崎まで行き一夜語り合った後、翌朝新妻は舟に乗り帰途に就いたが、その際に舟に乗っている新妻から夫妻へ届けられた歌

 ふたり来し 道とも見えぬ 浪の上を 思ひかけでも かへすめるかな

 

●第142段「命待つ間の」

〇今は亡き御息所の長女は、若い時に母を亡くし継母の手で育てられたので、ままにならない心境を詠んだ歌

 ありはてぬ 命待つ間の ほどばかり 憂きことしげく 嘆かずもがな

 

〇同じく、御息所の長女が梅の花を折って詠んだ歌

 かかる香の 秋もかはらず にほひせば 春恋してふ ながめせましや

 

〇御息所の長女は心豊かで歌に優れ言い寄る男も多かったが、返事さえしなかったので、父も継母も「時々は返事を」と責めたので、それに対して長女が詠んだ歌(結局、結婚せずに29歳で死去)

 思へども 甲斐なかるべみ しのぶれば つれなきともや 人の見るらむ

 

●第143段「在次君」

〇在中将(在原業平)の息子の在次君(在原滋春)は、妹の夫(伊勢守)の愛人(五条の御)のもとへ秘かに住み通っていたが、兄弟もまた五条の御のもとに通っているのを知り、在原滋春が五条の御に対して詠んだ歌

 忘れなむと 思ふ心の 悲しきは 憂きも憂からぬ ものにぞありける

 

●第144段「甲斐路」

〇在次君(在原滋春)が、旅先の小総の駅(現在の小田原市付近)の海辺で詠んで書き置いた歌

 わたつみと 人や見るらむ 逢ふことの なみだをふさに 泣きつめつれば

 

〇同じく、在原滋春が近くの箕輪の里で詠んだ歌

 いつはとは わかねどたえて 秋の夜ぞ 身のわびしさは 知りまさりける

 

〇同じく、在原滋春が甲斐国に来て住んでいる時、病気で死ぬ間際に詠んだ歌

 かりそめの ゆきかひ路とぞ 思ひしを いまはかぎりの 門出なりける

 

●第145段「浜千鳥」

〇宇多法皇が川尻(淀川の河口付近)に滞在した時、遊女の「しろ」を呼び寄せれると末席に控えていたので、法皇が「なぜそんなに遠く控えているのか」和歌で応えよと言ったことに対し、遊女「しろ」が詠んだ歌

 浜千鳥 飛びゆくかぎり ありければ 雲立つ山を あはとこそ見れ

 

〇法皇はこの歌を褒め称えて褒美を授けたが、それに対して遊女「しろ」が詠んだ歌

 命だに 心にかなふ ものならば なにか別れの 悲しからまし

 

●第146段「玉淵がむすめ」

〇宇多院が鳥飼院(摂津市鳥飼にあった離宮)で宴を催した時、遊女の「大江玉淵の娘」を側近くに呼び寄せ「大江玉淵の娘なら和歌も上手いので「鳥飼」の題で上手く詠めたなら彼の娘と認めよう」と言ったので、娘が詠んだ歌(宇多院は感激し、娘に褒美(袿と袴)を授け、公卿や皇子も着物を脱いで与えた)

 あさみどり かひある春に あひぬれば 霞ならねど 立ちのぼりけり

 

●第147段「生田川」

〇昔、津の国(摂津国)に住む女に二人の男(摂津国の「菟原」、和泉国の「血沼」)が求婚した。男たちの容姿や人柄、愛情などはほとんど同じで、女も親もどちらにするか思い悩んだが、ちょうど女と二人の男が生田川(神戸市を流れる川)のほとりに遊びに来ていたので、親が男たちに「この川で泳いでいる水鳥を射て、うまく射当てた人に娘を差し上げましょう」と提案した。その結果、一人は水鳥の頭の方を射貫き、もう一人は尾の方を射貫いたので、娘はどちらが勝者が定められず思い悩んで詠んだ歌

 すみわびぬ わが身投げてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり

 

娘はこのように歌を詠んで川へ飛び込んだので、求婚していた男二人も娘を助けに飛び込んだが、一人は娘の足を掴まえて、もう一人は手を掴まえてそのまま三人とも死んでしまった。娘の親は悲しみに暮れながら娘を埋葬し、男たちの親もまたこの娘の墓の傍らに墓を作って埋葬した。その際、摂津国の男の親は「同じ国の自分の息子こそ同じ場所に埋葬すべきで、異なる国の人はこの国の土を穢してはならない」と埋葬を妨害した。そのため、和泉国の男の親は和泉国の土を舟で運び、その土で埋葬した。それ故、女の墓を真ん中にして、左と右にそれぞれ男の墓は今でもあるという。

 

〇この昔の出来事をすべて絵に描き、今は亡き后の宮(藤原温子:宇多天皇の皇后)にある人が贈った時に、この昔話をもとに、皆が集まって亡くなった男女に代わり和歌を詠みあった。まず伊勢の御息所が、男の心になり詠んだ歌

 かげとのみ 水のしたにて あひ見れど 魂なきからは かひなかりけり

 

〇女に成り代わり、女一の皇女(均子内親王)が詠んだ歌

 かぎりなく ふかくしづめる わが魂は 浮きたる人に 見えむものかは

 

〇后の宮が男の心で詠んだ歌

 いづこにか 魂をもとめむ わたつみの ここかしことも おもほえなくに

 

〇兵衛の命婦(藤原高経の娘)が男たちの心で読んだ歌

 つかのまも もろともにとぞ 契りける あふとは人に 見えぬものから

 

〇糸所の別当(春澄洽子:春澄善縄の娘)が男の心で読んだ歌

 かちまけも なくてや果てむ 君により 思ひくらぶの 山はこゆとも

 

〇生きていた頃の女となって詠んだ歌(作者不詳)

 あふことの かたみに恋ふる なよ竹の たちわづらふと 聞くぞ悲しき

 

〇また、死んだ後?の女となって詠んだ歌(作者不詳)

 身を投げて あはむと人に 契らねど うき身は水に 影をならべつ

 

〇また、もう一人の男になって詠んだ歌(作者不詳)

 おなじえに すみはうれしき なかなれど などわれとのみ 契らざりけむ

 

〇女からの返しとして詠んだ歌(作者不詳)

 うかりける わが水底を おほかたは かかる契りの なからましかば

 

〇また、一方の男として詠んだ歌(作者不詳)

 われとのみ 契らずながら おなじえに すむはうれしき みぎはとぞ思ふ

 

(後日談)

この和歌を詠んだ男は、呉竹の節々の長いものを切って柵にして、狩衣、はかま、烏帽子、帯を入れ、また弓、背負の矢入れ、太刀などを入れて埋葬を行った。もう一人の男は、そのようなものは入れずに埋葬した。これらの塚は今では「乙女塚」と呼ばれている。ある旅人が、この塚のそばに宿泊した時、人が争う音がしたが、従者が見に行くと何も無いと言うのでそのまま眠ると、夢に血にまみれた男が出て来て「仇の復讐に太刀を貸して欲しい」と言うので貸した。すると、目覚めてから争う音が聞こえ、先ほどの男が来て「おかげで仇を討つことが出来たので、今後はずっとあなたの守護霊としてお仕えします」と言って物語の初めから語り出した。そのうち、夜が明けると誰もいなくなっており、朝になって見に行くと、例の塚のもとには血が流れていた。また貸した太刀にも血が付いていたとのこと。