柿本人麻呂の歌(1) | 俳句の里だより2

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万葉集と人麻呂

 

先に万葉集を代表する歌人の一人である大伴家持の歌について紹介したが、ここでは、同様に代表的歌人であり、後世山部赤人と並び「歌聖」と呼ばれた柿本人麻呂の歌を紹介する。人麻呂の歌については、以前にもこのブログでその一部を紹介したが、ここでは万葉集に記載されている歌の旋頭歌を除くほぼすべてについて紹介することとした。万葉集には「柿本人麻呂の歌」と明記されている以外に、「柿本人麻呂歌集」として紹介されている歌があり、万葉集20巻には前者が80余首(巻1,巻2,巻3,巻4,巻9、巻15)、後者が約370首(巻2,巻7,巻9,巻10,巻11,巻12,巻13)ある。

 

柿本人麻呂の生涯については不明な部分が多く、生まれたのは大化元年(645年)頃(斉明天皇6年(660年)頃の説あり)、没したのは和銅元年(708年)頃(神亀元年(724年)との説あり)と言われている。また、父母等は未詳である。万葉集での制作年の明らかな最初の歌は、持統3年(689年)の草壁皇子を悼んだ挽歌(巻2)であり、その最後の歌は、持統天皇譲位後の文武4年(700年)に明日香皇女を悼んだ挽歌(巻2)であるが、翌大宝元年(701年)9月文武天皇の紀伊国行幸の際、有間皇子の結び松を見て詠んだ歌が人麻呂歌集にある(巻2)。また、宮廷を離れた後に、筑紫国や讃岐国で歌を詠んだり、石見国で亡くなる時に詠んだ辞世の歌などがある(巻2,巻3)。

 

人麻呂が活躍したのは主に持統天皇の時代であり、持統4年(690年)2月の持統天皇の吉野行幸に従駕し歌(巻1)、翌年9月川島皇子が死去し殯宮の時、泊瀬部皇女に捧げた歌(巻2)、持統6年3月の伊勢行幸に際して京に留まり、行幸に従駕した妹を恋慕する歌(巻1)、同年冬軽皇子の安騎野遊猟に供奉し詠んだ歌(巻1)持統10年(696年)7月高市皇子を悼んで詠んだ歌(巻2)などがあり、この高市皇子の挽歌は万葉集最大の長編である。

 

人麻呂の歌の特徴として、多くは長歌と短歌(反歌)が組合わされ、数首の短歌が連作として工夫されるなど長大な構成を持つ。また表現技術についても対句や枕詞が修辞的に多用され、1句1語に推敲の跡が認められる。これらは人麻呂以前にはなかったことで、彼が日本最初の職業的詩人(宮廷歌人)であったことを示すものである。そのため、歌の多くは「雑歌」すなわち、天皇や皇子の行幸、出遊に際して賛歌として詠まれた場合が多く、「大君は神にしませば」などのフレーズを用い、王権の偉大さを歌い上げている。

 

一方で、天皇や皇子、皇女の死去を悼んだ「挽歌」にも優れた作品が多い。特に、高市皇子の挽歌(長歌)は149句に及び、亡き皇子の活躍する壬申の乱の戦闘場面は、迫力があり文学的にも素晴らしい。男女の恋愛を詠んだ「相聞」では、石見国で妻と別れる時に詠んだ歌は、通常の恋歌ではなく亡妻のために慟哭して詠んだ挽歌のようでもあり優れた歌である。

 

ところで、人麻呂の名声は万葉時代すでに大伴家持により「山柿の門」(歌人は山部赤人、柿本人麻呂が両雄)と称揚された。紀貫之は「古今和歌集」仮名序で「歌仙(うたのひじり)」として祀り上げた。以後、勅撰和歌集を中心とする宮廷和歌の世界でこの傾向が増幅され、平安末期には、藤原俊成は時代を超越した「歌聖」として仰いだ。また、「人丸影供」という人麻呂の肖像をかかげ香華、供物をそなえての歌会も行われた。しかし、和歌を宮廷の晴れの文学として聖化してゆく風潮が、最初の宮廷詩人たる人麻呂の像を肥大させていった。こうした人麻呂の神格化や伝説化は、その後の歴史を通してくり返されていくことになる。これは、後の芭蕉を「俳聖」と祀り上げて行ったことと重なるものであった。

 

次回以降では、最初に「柿本人麻呂の歌」と明記されている歌を順に紹介し、そのあとで「柿本人麻呂歌集」として紹介されている歌について順に記載することとした。