柿本人麻呂の歌(2) | 俳句の里だより2

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俳句の里に生まれ育った正岡子規と水野広徳を愛する私のひとりごと

巻1より

 

万葉集の代表的歌人である柿本人麻呂が宮廷歌人として活躍した時期は、持統天皇時代から文武天皇の時代(持統、文武、大宝年間:687年~704年)であり、この間に持統天皇の行幸に随行して歌を詠み、持統天皇の子の草壁皇子の死を悼んで挽歌を詠み、持統天皇の孫の軽皇子(後の文武天皇)に随行して歌を詠み、さらには、草壁皇子の異母兄の高市皇子の死を悼んで挽歌を詠むなどした。以下では巻1にある人麻呂の歌を紹介する。

 

〇持統天皇の時代、近江の荒れてしまった都(天智天皇の近江京)を通り過ぎた時に詠んだ歌

 (長歌)

 玉だすき 畝火の山の 橿原の 日知の御代ゆ 生れましし 神のことごと

 つがの木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和を置きて

 あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめしか 天離る 夷にはあれど

 石走る 淡海の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ

 天皇の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども

 春草の 茂く生ひたる 霞立つ 春日の霧れる ももしきの 大宮処

 見れば悲しも

 (反歌)
 ささなみの 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ

 楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも

 

〇持統天皇が吉野離宮に行幸した時に詠んだ歌

(持統天皇の吉野離宮への行幸は、持統3年正月、同年8月、持統4年2月、同年5月、持統5年正月、同年4月と何度も行われ、いつの時期に詠んだ歌かは定かでない)

 (長歌)

 やすみしし わが大君の 聞しめす 天の下に 国はしも さはにあれども

 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に

 宮柱 太しきませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り

 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす

 水激つ 瀧の宮処は 見れど飽かぬかも

 (反歌)

 見れど飽かぬ 吉野の川の 常なめの 絶ゆることなく また還り見む

 

 (長歌)

 やすみしし わが大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に

 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見を為せば たたなはる 青垣山

 山祇の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり

 行き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち

 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて奉れる 神の御代かも

 (反歌)

 山川も よりて奉れる 神ながら たぎつ河内に 船出するかも

 

〇持統天皇が伊勢に行幸した時に、藤原京に留まって詠んだ歌

 嗚呼見の浦に 船乗すらむ をとめらが 玉裳の裾に 潮満つらむか

 くしろ著く 手節の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ

 潮騒に 伊良虞の島辺 こぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を

 

〇軽皇子(後の文武天皇)が阿騎野に宿泊した時詠んだ歌

 (長歌)

 やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと

 太敷かす 京を置きて 隠口の 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を

 石が根の 楚樹おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かきる 夕さり来れば

 み雪降る 阿騎の大野に 旗薄 小竹をおしなべ 草枕 旅宿りせす

 いにしへ思ひて

 (反歌)

 阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 寐も宿らめやも いにしへ思ふに

 真草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君が 形見とぞ来し

 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ

 日並の 皇子の尊の 馬並めて 御狩立たしし 時は来向ふ