”思い出”というと、懐かしく慕わしいものというイメージがありますが、人を苦しめる思い出も・・・
前回の記事にした「焼き場に立つ少年」を写真記録に残したジョー・オダネル氏にとって、原爆投下後の
広島と長崎の記憶は、心をさいなみ、押し潰されそうな圧倒的な重さで彼を苦しませたんだよ───
夕陽に浮かび上がる破壊された浦上天主堂・・・オダネル氏はカルバリの丘(=ゴルゴダの丘)で
十字架にかかったキリストを思い起こしたそうです。後日、浦上天主堂を訪れたとき、癌を病み
老いた身体で杖をつき、礼拝堂で滂沱の涙を流しながら祈りをささげました───
こんにちは、今日は米軍の従軍カメラマンであったジョー・オダネル氏のことについてお話する
ことにしました。少し長くなるかもしれませんが、興味と関心のある方はぜひお読み下さいませ
記事内容は以下の2冊の書籍等やNHKのドキュメンタリー等を参考に致しました。
ジョー・オダネル氏(1922~2007)はアメリカのペンシルベニア州ジョーンズタウン生まれです。
日本の真珠湾攻撃に対して怒りを覚え、ハイ・スクール卒業に米軍の海兵隊に志願しましたが、
彼が配属されたのは、写真班でした。高校時代にアルバイトで地方紙のカメラマンをしていた
経歴を買われたのでしょうか?
「銃を構えるより写真を撮れ」と訓練施設で2年間ほど写真撮影技術の訓練を受けます。
ハワイを奇襲した日本に敵愾心を燃やしていました。
若者らしい愛国心から早く南太平洋に向かいたい、敵をやっつけたいと意気込んで
入隊したのですが、私は、日本に銃ではなくカメラを向けるための徹底した訓練を受ける
ことになったのです。
引用:『神様のファインダー』
人が生きていく中で、運命の分かれ道は幾つも用意されているものかもしれません(その時には
意識せずとも)あの長崎の写真が世界に広まるまで、オダネル氏の辿った道には幾つもの分岐点が
ありました。その最初が、銃撃の訓練よりも写真報道班への配属になるのかもしれませんね。
【画像引用:https://lisagawlas.wordpress.com/2014/07/22/】
訓練終了後、サイパンから軍艦に乗せられます。この艦上で、日本の降服や新型兵器の投下に
より10万人くらい死んだらしい、というニュースを知りますが、これといった日本への感慨もなく、
「これで戦争が終った!」というホッとしたというか喜びの方が大きかったようですね。
分捕った旭日旗とともにゴキゲンな笑顔で・・・この時には、まさか自分が日本とここまで関わる事に
なろうとは考えもしなかったことでしょう! やがて、海兵隊は占領軍として日本へ向かいます。
これも分岐点か、オダネル氏の運命は 一路、日本へ日本へと───
日本に上陸する前日、艦上では早朝に特別なミサが執り行われました。もちろん、この時点では
まだまだ「戦争に勝った!」「戦争が終って良かった!」という喜びの方が大きかったのでしょう。
オダネル氏のみならず殆どの兵士がそう思っていたかもしれません。しかし───
日本にとっては─── 新たなる苦しみの始まりでした。
オダネル氏はそのことを広島や長崎で身を持って知ることになります。
───残念ながら、こうした感想は全てのアメリカ兵が持っていたわけではないでしょう。
氏は、数ヶ月の間であっても、地元の人々(子ども含め)と結構交流を持っているんですよね。
若くて優しげな面差しのオダネル氏は、人の警戒心を解かせる魅力を持っていたのかもしれないし、
彼の心根の優しさと繊細さが、言葉は通じなくとも周囲の人々に伝わったのかもしれません。
─── しかし、その優しさと繊細さが逆に後々の彼を苦しめることになるのです。
占領軍として長崎県佐世保市に上陸、記録写真として日本の情景を写真に撮り始めます。
近辺では珍しく戦災を免れた佐世保市庁舎、その屋上から佐世保市内を撮影するオダネル氏を、
通訳の日系二世の方が撮影した写真です。その後、夕食を御馳走になった佐世保市長の奥様が
空襲で亡くなられていることを知り、「妻がアメリカ軍に殺されたというのに、どうしてこの人は
自分に対して親切にしてくれるのだろう?」などと思ったりもしますが───
佐世保にしばらく滞在した後、オダネル氏は親しい海兵隊のパイロットに広島へ連れて行って
欲しいと頼みます。やはり世界最初の原爆投下地をこの目で見ておきたいという気持ちがあった
のですが、佐世保や福岡など、空襲で破壊された街を幾つも見てきたし、同じようなものだろうと
思っていたら───
「これが広島?」私が想像していたイメージとは全然違いました。街など無かったのです。
すべてが平らで、瓦礫とほんの少しの破壊された建物が見えるだけ。まるで巨大な手が
人間の痕跡を一つ残らず取り去ったように、街は跡形も無くなっていたのです。 (中略)
私たちは爆心地近くの空き地に着陸しました。
「こんな場所に足を踏み入れて大丈夫なんだろうか」という不安を感じながら一歩を踏み
出した瞬間、地面の柔らかい感じに驚いたのを覚えています。
方角など全く分かりません。すべてが灰色と黒の石やコンクリートの塊で、(中略)
辺りには嫌な臭いが立ち込め息をするのも辛いほどでした。
少しずつ目が慣れてくると、信じがたい光景が目の前に広がっていました。
数え切れないほどの人間の骨。白く漂白されたような人骨が埃にまみれている
のを目にしながら私は、もうここには骨しか残されていないのを悟りました。
絶望感に打ちのめされ、自分がどこにいるのかも分からなくなりました。
何千、何万という人々が住んでいたはずの街が、たった一発の爆弾で廃墟と化して
しまったのです。 (中略) そこで私は思いました。
「神よ、我々はいったい何をしたのですか」と。
引用:『神様のファインダー』
原爆が投下されて都市が2つ無くなり、十万人以上の人々が亡くなった・・・事前に知識としては
知っていてもあくまではそれは”知識”で、犠牲者の数も単なる”数字”でしかなかったのでしょうね。
広島の地に降り立ち、原爆の恐ろしさを実感として肌身にしみて分ったのが、この時なのかもしれません
茫然自失の私の耳に、カラスの鳴き声が聞こえてきました。
あちこちにカラスが飛んでいて、まるでわずかに残った人肉を狙っているかのようです。
引用:『神様のファインダー』
オダネル青年は憤りを抑えられず必死になってカラスを追い払おうとしますが、上手くいきません。
仲間に危険だからと止められましたが、後になってから彼はこう思います。
私がカラスに抱いた憎悪は、裏返してみれば、自分の国が広島を破壊してしまった
という罪悪感だったのです。
引用:『神様のファインダー』
実はオダネル氏は子ども時代に、洪水で家や家具など全ての物を失った経験があります。
原爆との大きな違いは、洪水は自然災害であり誰にも予測できないが、
原爆投下は人によって計画され、実行されたということです。
私は広島の人骨だらけの荒地に呆然と立ち尽くし、人間が同じ人間に犯した信じがたい
行為を思いながら、言いようの無い悲しみに襲われました。
引用:『神様のファインダー』
───そう、まさしく悲劇の本質はそこにあるのです。
人間が、人間に対して為した大いなる過ちによる災厄───
これほど残酷な人災があるだろうか。
───これは人類に対する重罪と言える
by ジョー・オダネル
オダネル氏はその後は長崎へ出向き与えられた任務の”原爆投下後の長崎を記録する”ことに
励みます。前回の記事で取り上げた「焼き場に立つ少年」の撮影もこのときであり、その少年を
撮影したことが氏の人生の新たな分岐点であったかもしれません。
【向って右側の男性は当時の通訳の方で、左の若い男性はオダネル氏の意志を継いだ息子さんです】
彼の消息が知りたくて、写真展などで来日したときに、新聞社等の協力を得て必死の思いで
探したものの名乗り出る人もありませんでした。
但し、その後に未確認情報ではありますが、日本や海外の掲示板では───
この情報の上ったときには既に亡くなられていたそうですが、病弱なお母様を支え戦後の日本を
生き抜ぬいて来られたそうです。彼の人生がどのようなものであったか知る由もありませんが、
オダネル氏の一枚の写真の中で、永遠のいのちを得たのかもしれません───
そうして、今でも、私たちに多くのことを語りかけてくれるのです。
そうして、この頃から許可なく日本人を撮ってはいけないという命令に背き、瓦礫の中で生きる
人々を密かに別のカメラで撮影していたのです。1945年9月以降、GHQは原爆報道の規制を
強化し始めますが、やはり、その残虐さが知れ渡るとヤバイと思ったの?
↑なっ、なにをヌカすか!と日本人なら言いたいところですが───。まあ、それはさておき、
写真記録班の任務は、個人的な感情を捨てひたすら記録に徹することなんですよね。しかし、
オダネル氏は、まるで何かに取り憑かれたかのように、出会った人々や周囲の事物を撮影します。
長崎の爆心地の外れで出会った子どもたち。いちばん年長の子どもが弟たちを手押し車に
乗せて遊んでいた。彼らは最初いぶかしげに私を見たが、写真を撮らせてくれたお礼に
リンゴをあげると3人で貪るように食べた。皮も芯もすべて食べつくした。 このとき私は
「本当に飢えるというのは、どういうことか」 という事を知った。
米兵が子どもたちにお菓子やチョコなどを与えるシーンを撮影するのはOKだったんですよね。
「ギブ・ミー・チョコレート!」の写真が多く撮影、残されているのはそのためなのでしょう。
なんといっても米軍のイメージアップになりますから・・・
しかし、オダネル氏の感性は、また別の感想を持ったようです。 そこには───
上から目線で敗戦国民に ”恵んでやる” という傲慢さはありません。
─── 辛うじて焼け残った学校の教室で授業を受ける子どもたち。
教室の窓の外にはかっての校庭が破壊されて広がっているのを見て、オダネル氏は深い悲しみを
覚えますが、子どもたちは驚くほど規律正しく座り、じっと先生の話に耳を傾けていました。
苦しい戦後を生き、日本を復興させていったのが、こうした子どもたちなんだよなあ。。。
後に、写真に写っていた少女の名札から、学校名も分かり来日時にはこの時の彼らのうちの
何人かと再会もできました。悲惨なエピソードが多いけれど、これはちょっと嬉しい話だよね♪
【画像引用:http://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=KDT0401600】
長崎では、赤十字の特設救護病院も訪れ、原爆被害者の方々の実態を知ることにもなります。
数多くの火傷に苦しむ人々─── その中でも忘れがたい人もいました。
もはや人間の姿をとどめぬほどに変形し、それでも苦しみながら辛うじて断末魔の状態で生きて
いる人・・・その人はうわ言のように「殺してくれ!」「殺してくれ!」と叫びながら目から涙を・・・
しかし、このときのオダネル氏に何ができたでしょう? 翌日には、もうその方の姿はありませんでした。
まだ若い、感性豊かな青年にとっては、耐え難いような凄惨なシーンが続きます。
この病院で氏が残した写真は、背中に大火傷を負って意識が無いのか微動だにしない少年。
彼の裸の背中とお尻は焼けただれ、肉片らしきものも残らずに───
なぜか、カラー写真もあります。より残酷さが際立つのですが、敢えて載せることにしました。
これが、原爆の実態なんですよ・・・。だから、絶対に目を背けてはいけません!
じくじくと爛れている彼の傷にハエやウジがたかっている。(中略)
私はハエをハンカチで払い、傷口に触れぬように注意しながらウジをつまみ取って撮影した。
ひどい臭いに息も詰まりそうであった。少年がまだ若いこともあって、彼の苦しみを思うと
私の心はひどく痛んだ。そのあと私は、頼まれない限りは、これ以上被爆者の写真は
撮るまいと心に決めた。
───しかし、この少年は生き延びました!
しかし、この少年は死んではいなかった。
1993年11月12日、48年後の長崎で彼にあったときの私の驚きと喜びは
言葉に表現できない程であった。
写真展会場に来ていた或る女性が、この少年のことを知っていたんですね。
少年は(何度も手術を受けながらも)成長して長崎原爆被災者協議会の会長さんを務めておられ
オダネル氏が亡くなるまで親密な交際が続いたとか───
オダネル氏の長崎でのエピソードはまだまだ多数あるのですが───
こうして長崎に滞在中に数々の写真を(軍務用と私用のと!)撮影し、人々と触れ合っていくうちに
オダネル氏は自らの心境が変化していることに気付きます。
憎しみが消えてしまった・・・
戦勝国の軍人として来日したけれども、占領者の立場ではあるけれども、いつのまにか人間と
人間との関係性を築いてしまったのでしょうか? 被爆者たちの凄まじい苦しみを目の当たりにして
米国軍人としてではなく、ひとりの人間として相手を見るようになってしまったのでしょうか?
アメリカを愛し祖国のために闘うつもりでいたはずが、原爆投下は本当に正しかったのか、という
疑問すら持つようになってしまったのです。
こうした考えは、軍人としてはタブーであることかもしれません。写真撮影の対象者に対しては
覚めた目で見て、機械的に撮影するのが彼に与えられた任務だったはずです。
ましてや、公用以外の撮影などはもってのほか!なのでしょうよ。 しかし───
長崎で7ヶ月にわたり撮影を続けたオダネル氏は、帰国が決ったときに、軍務として撮影したネガは
軍に提出、密かに撮影したネガは未使用フィルムに見せかけアメリカに持ち帰ります。
何故そこまでして・・・?
しかし、自宅で改めてネガを確認し余りの悲惨さにかなり多くのネガを捨ててしまうことになります。
そうして、当時はプライドを持って着ていた海兵隊の制服までも、自宅の庭でガソリンをかけ
焼却してしまうのです。どうして? ───思い出したくなかったのです。平和な実家に戻り、改めて
長崎の悲惨な状況を思い出したり、写真を見れば辛くてたまらなくなったからです。
長崎で見た光景を思い出すまいとした。
しかしその光景は頭から離れず、私を苛(さいな)み続けた。
あの時のアメリカの決断は正しかったと言えるのだろうか。
眠ろうとしても眠れない。悪夢が終らないのだ。写真を見たくなかった。
見ると長崎の悪夢が甦ってしまう。
そうして、どうしても燃やせなかった写真やネガをトランクに隠し、以後43年間
開ける事はありませんでした。
───もしかすると、今でいうPTSDに近い状態だったのでしょうか?
傷ついた人々を撮影していくうちに、オダネル氏の心までもが傷ついてしまったのかもしれません。
もちろん、長崎のことを考えなければ普通の生活をするのに何の不都合もありません。
写真技術の腕を買われて、アメリカ情報局のホワイトハウス付きのカメラマンとして勤務。
結婚して、一男一女に恵まれ幸福な家庭を持つこともできました。順調な人生じゃないですか!
───そうだ、忘れてしまえ、長崎のことなど!
かくして、長崎でオダネル氏が過ごした日々や写真&ネガはトランクの中に封印され、自宅の
屋根裏部屋で深い眠りにつくことになります。 ───約43年間ほどの眠りに。
オダネル氏は、なぜ封印を解きこれらの写真を世に出そうとしたのか?そうして、封印を解いた
ことにより、それまでのオダネル氏の穏やかな生活が一変することになってしまうのですが・・・
しかし、文字数もそろそろオーバーしそうです。
切りが良いので今日はここでいったん記事を終えましょう。やはり、一回だけの記事ではまとめ
きれませんでした。次回は明日か明後日にでも・・・
読むと、息苦しくなるような(気分が悪くなるような)記述や画像があったかもしれませんが、
その点は、どうぞお許し下さい。そうして、ここまでお読み頂きありがとうございました。
【こちらは、写真集ではなく、長崎新聞社のレポートになります。
オダネル氏の記憶違いや外国人ならでの勘違いなども検証した上での、この少年の行方を追うレポートですが、
5年間にわたる調査報告書であり、単に「この少年は誰?」という切り口ではありません】