本日の悲歌[ここにまた夏は来りて草しげる地に幾万のいかりはひそむ by 白島きよ] | 俳句でDiary ─ できるかな?

俳句でDiary ─ できるかな?

私の俳句 萌え萌え日記

アメリカの 言い訳 大義名分はともかくとして、広島&長崎の原爆投下は大いなる科学実験であり

 

リアルな人体実験でした。戦争遂行の目的からいえば、首都である東京に落とすのが一番効率がイイ

 

はずなのですが、それでは不都合です。東京は既に3月20日の大空襲でボロボロになっているし、

 

効果を確認する実験の為には”無傷”の都市が好ましいからね。 そのために幾つかの

 

都市を候補にあげて、空襲をせず温存しておいたんだよ、実験用にな(怒)

 

   

 


     「安らかに、過ちはくりかへしません」という

          墓碑銘はウオール街にでんと建てよ  
  増岡敏和

                                 引用」『歌集 広島』1929(昭和24年)刊より

 

 

こんにちは、タイトルと上に掲げた歌は『歌集広島』からのものですが、意味はとりたてて説明する

 

必要も無いでしょうね…。どちらの歌も悲しみとやり場の無い怒りに満ちていますから───。

 

 

このところは、同じテーマの記事が続いていますが、引続き今日も「焼き場に立つ少年」を撮影した

 

ジョー・オダネル氏の関連記事です。興味の或る方は以下も宜しく御覧下さいませ。

 

 

         ペタしてね

 

 

封印された写真たち

 

 

23歳のとき進駐軍として来日し原爆投下直後の長崎で約7ヶ月間過ごしたオダネル氏は、米国に

 

帰国後は、せっかく撮影した長崎の写真やネガを全てトランクに封印してしまいます。

 

この際にはかなりのネガや写真が処分されました。

 

   
   どこの場所か特定はできませんが、荒れた土地が写っていました。

   次のネガを取り出すと、そこには両目から黄色い膿が出ている小さな男の子と、

   絶望感に襲われた様子で立ち尽くす母親の姿が写っていました。


   その瞬間、思い出したのです。

   その母親が男の子の片方の目を開け、眼球がなくなった眼窩を私に見せたことを。

   もう片方の目は、眼球が飛び出してぶらさがっていたことを。

   私は耐え切れなくなり、ネガを袋に突っ込んでゴミ箱に捨てました。(中略)


   頭が不自然に曲がった男性の写真でした。「どうしてこんな写真を撮ったんだろう」と

   思った瞬間、顎がなくなって舌をぶらぶらさせながら懸命に話そうとしていた男性だった

   ことを思い出しました。(中略)
 

 

 

まだ若い青年にとっては、目の当たりにした悲惨すぎる現実は背負いきれないものがあったのかも?

 

また仮に、長崎の写真を公表しても全く受け入れられなかった可能性の方が高かったはず・・・

 

 

史上初めての原子爆弾の投下に成功───

 

それはアメリカにとっては輝かしい歴史の1ページとして捉えられたからです。

 

やがて西と東の冷戦時代を迎え、ソ連に向けてのアメリカの核戦略が強化されていきます。

 

    

 

”ミス原爆”だと・・・?!  現代ではチョット考えられないけれども、当時はこれが大うけ!

 

 

アメリカ情報局で働く

 

 

ホワイトハウス付きのカメラマンとしての仕事は、報道写真家としては極めて望ましいポジション

 

だったのではないでしょうか。もちろん、彼一人ではなくカメラマンチームの一員としてですが、

 

トルーマン以降4代の大統領の身近で、世界を動かす人物の歴史的瞬間に立ち会えるのですから。

 

   

 

↑1950年10月トルーマン大統領とマッカーサー元帥の会談の場にて。同じ仲間のカメラマンたちと。


左から二人目がオダネル氏です。氏の撮影した報道写真(JFK関連など)は結構多いのですが

 

今回はパスしておきますね。  

 

 

この会談時に、トルーマン大統領とたまたまビーチで二人だけになったときがあり、かねてより

 

疑問に思っていたことを直接大統領に尋ねてみました。

 

 

「大統領、私は戦後海兵隊のカメラマンとして広島、長崎で写真を撮りました。その後、たびたび

 

逡巡がよぎりましたが、原爆を落とすことに躊躇はなかったですか?」 と───



すると大統領は急に顔を赤くし、「もちろんだ!不安や疑いだらけだったよ。しかし、引き継がなければ

ならない仕事は山ほどあったのだ!」

 

   

 

 

もちろん、これは極めて非公式の発言です。伝言ゲームではないけれど、大統領が本当にこの通りに

 

言ったのかどうかは、よく分かりません。微妙なニュアンスの違いもあるでしょうし・・・


ただ、ルーズベルト前大統領が1945年の4月に死去し、その跡を継いだのが当時副大統領だった

 

トルーマンでした。最終的にサインをしたのはトルーマン大統領ですが、原爆投下のマンハッタン

 

計画はそれ以前からの壮大な国家プロジェクトとして進んでいましたからね。

 

要するに、ボクが決めたんじゃないもん! ボクのせいじゃないもん! と言いたいのかね?

 

 

 

そして、報道カメラマンとして、順調に仕事を続けていくうちにオドネル氏の身体に幾つかの異変が

 

起こり始めます。身体中に発生したしこり、腸の切除、脊椎のインプラント治療、骨の異常、そして

 

皮膚ガン・・・これが、広島と長崎の間接被爆であるのかどうかは不明です。

 

 

けれども、こうした病気も彼に封印を解く後押しをしたのかもしれません。

 

25回以上もの手術を重ね、人生の行く末を考えることが増えてきたのか───
 

 

 

封印を解くきっかけになった”ONCE像”

 

 

1989年の或る日のこと、ケンタッキー州のさるカトリック施設を訪れたとき、一人のシスターが造った

 

彫像に目を奪われます。それは等身大の人物像で十字架に架かったキリスト像のようでした。

 

   

 

よく見ると、その表面全体に原爆被害者の写真が貼り付けられているのです。

 

腰の周りには、爆心地附近をさまよう二人の男女が───

 

   

 

腕の部分には、列をなす被災者の群れ───

 

   

 

   

 

───オダネル氏に、ずっと封印してきた長崎の記憶が甦ります。

 


   その当時のことを思い出すのは耐え難い苦痛でした。

   長い間、何も考えていないような振りをしてみたり、悲惨な思い出を無視しようとしてきました。

  
   しかし、自分が広島、長崎、佐世保、東京など、過去訪れた場所に立ち尽くしている悪夢

   を見る日々が続き、ついに私は、この事に直面しない限りは傷が癒されないのだ

   と気付いたのです。
 

 

 

───ついに、封印が解ける日がやってきたのです。機が熟した、といってもいいのかな?

 

長崎の悲惨な状況を知らしめることは、彼自身の魂を救うことでもあったのでしょう。

 

 

それとも、彼の写した写真たちが生きて意志を持ち、オドネル氏の魂に訴えかけたのでしょうか?

オ願イデスカラ私タチヲ世に知ラセテクダサイ、

 

             ドウゾドウゾ多クノ人々ニ私タチノ姿ヲ───
 

 

写真展そして出版を望んでも・・・

 

 

このときから、オダネル氏の精力的な活動が始ります。

しかし、原爆の写真を受け入れてくれる施設は少なかったのが現状でした。アメリカの強さの象徴

 

であった原子爆弾を肯定的に捉える写真展ではなく、その悲劇と道義的責任を訴える写真展

 

ですからね。若い世代に訴えるために学校などでミニ展示会や講演に励みますが・・・

 

  

 

次に目論んだのが写真集の出版ですが、35社回った出版社は全てお断り!

少数派ながらも理解してくれる人々はいましたが、大勢としては原爆肯定派だったからです。

しかし、ここで転機が訪れます。

 

 

日本での展示会、講演の成功が・・・

 

 

原爆投下の数年後に、牧師として広島でを訪れたことのあるラマーズ夫妻との出会いです。

夫妻は宣教師として、その後も長く日本に滞在されたことがありましたから、日本での展示会の好機が

得られたわけですね。出会いから10ヶ月足らずの間に、ラマーズ氏の赴任先の東北地方から始まり

北海道や東京でも(小規模ながらも)開催されました。そして、マスメディアからも注目されるように・・・

このとき、オダネル氏が出した声明の一部を抜粋しておきます。

 

 


   ─── アメリカ国民の一人として、私の考えを述べます。

   必要の無かった世にも残酷な原子爆弾の投下によって引き起こされた痛みに、

   後悔と悲しみの念を覚えます。あれは間違いでした。人道に反していました。


   
   【画像引用:https://www.gettyimages.co.jp/ 広島の被爆者 教師と生徒たち】

   
   ナチスのホロコーストと同じほどの、犯罪といってよい過ちでした。

   歴史に対してだけでなく、人類に対する犯罪でした。(中略)


   私は、かって見たことを決して忘れません。

   死んでいった人々に対して、覚えておく義務があるのです。


   彼らの死を無駄にしてはいけません。覚えていることによって、彼らの死を悼みましょう。

   命の尊厳を彼らから学びましょう。私は語り続けます。
  
  
 

 

 

アメリカよりも先に日本で受け入れられたのですね。これはまあ当然のことだと思います。

しかし、一番訴えたい肝心のアメリカでは───

 

 

スミソニアン博物館での展示が取り消される

 

   

【広島に原爆を落としたのはエノラ・ゲイで、長崎はボックス・カーと呼ばれています】

1995年、スミソニアン博物館でエノラ・ゲイを修復して展示する企画があり、同時期に写真展は

 

できないかとかなり運動されたようですが・・・。うーん、”原因”と”結果”を同時に展示するようなもの

 

ですが、辛うじて内定はしたものの、エノラ・ゲイの元パイロットたちや地元の退役軍人たちの激しい

 

反対にあい中止に追い込まれます───
 


   

 

元軍人の方々がこういう発言をするのは分からないでもないけれど、軍事施設への攻撃と

 

武器を持たない一般市民への無差別攻撃では比較にもなりません。その規模に於いてもネ…。

 

だけど、これだけは言えるな。↑こういう発言をする方は原爆の残虐性を知らないんだよ!

 

   

 

 

その頃から、家には、嫌がらせの電話や手紙がまいこみ、オダネル氏を批判する投書も目立つように

 

なり、ホワイトハウス時代の彼の報道写真に対してまで凄まじいバッシングが繰り広げられ、ついに

 

耐え切れなくなった妻のエレンさんは、夫の行動をついに理解できないままに離婚・・・


「原爆の投下が戦争を終らせ、犠牲者を減らした。」これがアメリカの言い分ですが、その残虐性には

 

なぜか触れないのさ! いや、敢えて考えないようにしているのでしょうか?

 

   


しかし、時代を経るごとにオダネル氏に賛同する人々も増えてきました、少しずつ少しずつ───

 

   

 

オダネル氏の意志を継いだ息子さんに送られてきたメールです。

 

さまざまな世代の方からのメールの中で、イラクの帰還兵の方からも───

 

   

 

 

最後に・・・

 

 

その後、オダネル氏は1997年、日本の教会での写真展で出会ったクリスチャンの坂井貴美子氏と

 

再婚。坂井氏はオダネル氏の意志を継ぎ写真管理や各地での展示会も企画されていらっしゃいます。

 

   

 

 

そうして、2007年、ジョー・オダネル氏は脳溢血のためナッシュビルで死去されました。享年85歳。

偶然にも、お亡くなりになったのが八月九日、長崎忌とまさに同じ日であるのも不思議な因縁───。

 

   

 

 

勇気ある者こそ語れ原爆の痛み悲しみ一枚の写真に    灰色の猫

   

 

 

─── 天上に昇った勇気あるオダネル氏の魂の安らかなることをお祈り申し上げます。

 

それでは、今日はこの辺で…最後までお読み頂きありがとうございました。

 

 

 

        ペタしてね