廃仏毀釈以前の遺構
実は、今日で接骨院へ通うこと三回目。
さすがに、腰やっちゃってから、十日も痛いままなのは、おかしい!
と、なかば強制的に行かされてるわけですが、
今朝、ようやく、まともに布団から起きることができました。
つまり、昨日までは、寝返りをうつ度に激痛に襲われ、
朝目が覚めても、起き上がるのにエライ暇がかかっていましたが、
ぎっくり腰から二週間目、ようやくです( ;∀;)
まあしかし、
歩いたり、車の運転は出来ていて、
正座から、起居(ききょ)、膝進(しっしん)、起座(きざ)といった祭式(作法)は、なんとか出来るので、この間、紀元祭や地鎮祭等々ございましたが、なんとか奉仕を出来ているのでございます。
(掃除は辛かったですけどね)
で、
昨日の午後、頼まれていた、能登町波並鎮座の火宮神社の祈年祭を奉仕いたしましたが、

その折、
氏子の依頼で、本殿内陣を少々整理して、
明治初年の神仏判然令以降、いわゆる神仏習合時に祀っていた仏像類を廃し、新たにご神体を奉齋した場合が多いのと、明治後期の神社合祀令で、複数あった神社のご神体が、併せて祀ってある旨、申しあげましたらば、

ならば、こちらも見てくれ、とのことで、

境内には隣接してお堂が建っているのですが、
これを修理するにあたって、意見を伺いたい、とのことでした。
画像を撮るのは、はばかりましたけどね、
拝見して、ナルホド!
中に祀られていたのは、本堂となる逗子と、その傍らには、金比羅権現の祠がありましたが、
それは明らかに神社の遺構で、屋根に千木堅魚木がありました。
そして、殿内には、仏像とともに、鏡や御幣の数々。
想像するに、廃仏毀釈時に、役人の目を逃れ、合併合祀前の神社に納められていた仏像仏具を、このお堂に隠したのでは?
(あくまで想像です)
当時、その行政地区にもよりますが、
多くは、神社に似つかわしくない仏像仏具は、叩き壊して焼却することを推し進めたことが多く、
それを拒んだ住民が、こっそり地中に埋めたり、近隣の寺院にかくまった、という話はよくあります。
羽黒神社の本宮であります、山形の羽黒山三神合祭殿に初めて詣でた折、正式参拝をさせていただき、
殿内に入った時に思ったのは、

「あ!まるっきりお寺のままや!」
でしたが、
神仏習合時代の建物をそのまま使用しているのは知ってはいましたが、
多くは、お堂は拝殿としてそのまま使っても、明治政府の指導に従って、新たに本殿を建てたりするものですが、
これはまるっきり、寺院の内陣そのままです。

(神道的な装飾に改められてはいるでしょうけどね)
参拝後に、社務所で当時の禰宜さん(だったかな?)に色々お話を聞かせていただき、記念冊子なんかもいただき、勉強させていただきましたが、
当時の出羽三山の僧侶(多くは後に神職に服飾)はもちろん、地域住民も、決して廃仏毀釈を歓迎してはいなかったということに驚かされました。
あまりにも神仏習合時代が長く、創建時から仏教色が強かった出羽三山と、創建から千年以上経って、徐々に仏教と習合していった旧官社とでは、解釈が大きく異なることは理解できます。
激しい抵抗、拒否運動の結果、破壊を免れたのが、神社には珍しい鐘楼と、
国宝、五重の塔であります。

お堂から神社に戻すことは、先ず不可能にしても、
先人の遺構をどの程度、継承していけるのか、
いずれにしても、氏子の理解と熱意が必要ですね。
(お堂は、檀家、宗派に関係なく、集落みんなで管理しておられるそうです)
あったかい日でした♪
雪が一気にとけました。

このまま春になってくれれぼ、と、切に願います。
今、もう一度雪が降っても、腰を痛めていて、雪かきができません。

紀元祭の翌日の雅楽会。

紀元祭が終わったら、今月は天長祭(天皇誕生日奉祝祭)があります。

君が代には、いくつか雅楽の調子の譜面がありますが、
壱越調(いちこつちょう)が一番歌いやすいらしく、練習いたしました。
たった3日前ですが、まだまだ寒く、
えらいあったかくなりました。
紀元祭を奉仕した次女(権禰宜)が、私の誕生日に置いていったというケーキを戴きました。

こりゃ、ウィスキーが要るっ!
ということで、左義長に手伝いに来てくれたT哉宮司にいただいたバーボンをいただきました♪
ありがとうございます。
まあ、
次女は「ケーキ買え」って提案しただけで、
お金払ったのは家内みたいですけどね(^_^;)












