夫の腸チフス闘病記【④ 診断の後】 | ハゲとめがねのランデヴー!!

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『深夜特急』にあこがれる妻(めがね)と、「肉食べたい」が口ぐせの夫(ハゲ)。
バックパックをかついで歩く、節約世界旅行の日常の記録。

 

夫の失言

 

 

 

 

 

とにかく夫の病名が特定された。

あとは抗生物質を毎日決まった時間に6日間飲むだけ。

 

退院した翌日から抗生物質を飲み始めたが、もちろんすぐに効くわけではない。

夫は相変わらず悪寒、高熱、発汗、解熱のサイクルを繰り返しており、辛い状況は変わらなかった。

 

しかし高熱はあるが危険な状態ではないと医師は言うし、どういう場合に救急車を呼んだらよいかも確認できた。

 

指標ができたのでもう迷わずにすむ。

専門医の連絡先を教わりいつでも連絡をとれる状態になったことも、安心材料の一つになった。

 

夫は死なない。

 

わたしは安堵したと同時に張りつめていたものが緩み、その緩みからたまっていたストレスがこぼれ落ちていった。

 

 

ある日の夕方わたしはどうしても眠くなり、予定していた時間に起きられなくなった。

そしてはっと目が覚め、そうだ夫の体調を専門医に連絡しなくちゃ、と焦った。

 

熱は何度で、悪寒や発汗の様子はどうだろう。

「今の状況を教えて」というと、夫はこう答えた。

 

「4時に起きるって言うてたけど、今6時」

 

それは、わたしの、状況で、ある。

 

もう何年前のことか忘れたが、かつてとある議員の「ミュージカル調パワハラ」というものがワイドショーを席巻した時期があった。

それはたしか女性議員が男性秘書に対し、

 

「このハゲーーー!!! 

ちーがーうだろ、違うだろっ!!」

 

と高圧的な叱責を繰り返したというものだった。

 

わたしはこのとき、それと同じセリフを脳内で叫んだ。

今では「不適切にもほどがある」などと言われるのかもしれないが、夫の間の抜けた答えに直面したわたしにこれ以上適切な言葉があるだろうか。

 

夫に悪気はないとわかっていても、寝過ぎてしまったことに対する嫌味のように感じた。

これまで緊張によって抑え込んでいたストレスがあふれ出てきたのである。

 

高熱に耐えるだけで夫は精一杯であっただろう。

しかしわたしも慣れない事務の連続だった。

 

当初3日の予定だったメルボルン滞在を延ばしたことで、宿やフライトのキャンセル、病院から近い宿探し、医師との英文でのやりとり、保険会社への説明などが、次から次へと必要になった。

 

夫が悪寒で震えているあいだ、生きているならそれだけでいい、なんでもしてやろうと思っていた。

しかし夫は死なないとわかった途端、常日頃から全ての予約をわたしが行い、よってキャンセルや再予約にあたり全てわたしあてに連絡が来ることを理不尽だと思った。

 

電話やメールが来るのが怖い。

しかしケータイを確認しなければ気がすまない。

 

さらにその後、保健所だか保健局だかから電話で「夫に料理をさせないように」と指導されたことも追い討ちをかけた。

 

夫は今病気であり食べられるものも限られるため、それまで泊まっていた共用トイレの安宿から、専用トイレとキッチン付きのホテルに移った。

もちろん夫が高熱である今私が料理するけれども、夫はいつまで料理をしてはいけないというのだ。

うちは性別役割分業など採用していないのだ。

 

明るい日差しのもと談笑する人々を見るのが辛くなり、外に出るのが億劫になった。

重い腰をあげ買い物に行き、部屋に戻ると涙が止まらなくなった。

 

夫が発症して以来、わたしは夜連続して熟睡できたことがなかったが、このタイミングで生理がきたので睡眠不足が長引いた。

夫はわたしの苛立ちに対して苛立ち、お互い孤立した状態だった。

 

異国で緊急事態が起きるというリスクも引き受けて旅をしているつもりだったが、いざそうなってみると「誰か代わりに水を買いに行って」ということばかり考えている。

 

わたしもいい加減、何も考えず寝たい。

しかし自分以外に、夫に水を買ってきてやれる人間はほかにいないのだ……。

(ちなみにオーストラリアで水道水は飲めるが、このときはあらゆるリスクを避けようと夫の分は買いに行っていた。)

 

夫に療養期間が必要なのは間違いないが、わたしにも休息がいる。

夫は体力、わたしは平常心を取り戻さねばならぬ。

 

 

わたしのストレス解消法

 

夫は前から「好きなとこ行ってき」とわたしに気晴らしの観光をすすめていたが、夫から長時間目を離すのも怖く、またスーパーに行ったり調理したりしなければならないため、ゆっくり観光できる状況ではなかった。

 

しかし発症から10日が過ぎ、夫の熱も下がる兆候が見えた。

わたしは美術館に行ったり本屋に行ったりし始めた。

 

会社員時代、忙しさと理不尽さに絶望していた頃よく本屋に行ったように、わたしは抱えきれないストレスがあるとあと先考えず本を買ってしまう。

 

オーストラリアの物価はもともと高いが円安がさらに追い打ちをかけ、さらにキッチンつきの個室をとる必要があったわたしは、もうこれまでの節約など取り返しがつかない事態に直面して金銭感覚が麻痺していた。

それまで毎日その日の支出を計算していたが、メルボルンでは家計簿をつけるのをやめた。

 

そしてアボリジナルアートの本を、新刊で何冊も買った。

 

アボリジナルアートはわたしにとって癒しであり、見ていると気持ちが落ち着く。

高いけれどその分の価値があり、しかも日本で買うことはできない。

 

夫の発汗は相変わらずであったが熱は下がりはじめて快方に向かい、もう病院には行かずにすみそうであった。

メルボルンの病院近くに滞在する必要はない。

 

わたしは夫に中心部から少し離れた場所での療養を提案した。

ホテルの予約サイトを見ると、わたしがかつてワーキングホリデーで住んでいた地区にちょうど貸しアパートがある。

 

中心部よりも宿代は安くなるし、目立った観光地はなくても、本を眺めたり散歩したりしながらゆっくりしようじゃないか。

 

メルボルンのアパートでの生活は、きちんと心身を整えるチャンスだ。

そうして夫とわたしのメルボルンアパート生活が始まったのだった。

 

 

(NGV(ビクトリア国立美術館)にすごい作品があった。

カメラに収まりきらない横長だったためこれは一部のみ。

 

Tim Leura TiapaltjarriとClifford Possum Tiapaltjarriの共作。

どちらもアボリジナルアート界の超重要人物である。

 

細かいドットにより迷彩柄のような形ができており、そこに人やら植物やらが描かれている。

彼らの土地と、そこにある伝統、祖先とのつながり、文化が画面いっぱいにある。

 

ワーホリでアデレードに滞在していたとき、Clifford Possumの作品を見た。

そのときも圧倒された。

あまりに圧倒されて動けなくなるほどズドンと衝撃を受けたのを、今もよく覚えている)

 

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