まやかしの「多文化共生」
6年前、ワーキングホリデーでオーストラリアにいたわたしは、博物館めぐりをしながらこう思っていた。
「やけにアイデンティティに関する展示が多いな。
オーストラリア人は自分の出自や所属にそんなに関心があるのか」
しかしこの国の歴史や現状を知ると納得もいく。
オーストラリアには移民や混血が多く、親と子で出生国が異なることも珍しくない。
そもそもこの国はイギリスからの入植者たちが先住民であるアボリジナルを虐殺し、大陸丸ごと奪った歴史が根底にある。
そうした国で生きることを考えたとき、オーストラリア人とは何なのか、自分は何者なのかとルーツを問うのは自然かもしれない。
オーストラリアの人々は、いや、この国そのものが自らを定義づけようと壮大な「自分探し」をしているのだ。
オーストラリアは「多文化社会」を打ち出しており、旅行者からみると「フレンドリーで移民や外国人にやさしい国」のイメージがあるのではないか。
「多文化共生」がさもこの国の伝統のように見えてしまう。
しかしそれはウソだ。
オーストラリアの混血の背景は必ずしも幸せな恋愛ではない。
白人男性が原住民アボリジナルの女性をレイプし、その結果生まれた子もいる。
政府や教会によって子どもはアボリジナルの母親から引き離され、英語を強制され、白人流の教育を受ける。
その結果アボリジナルの文化を劣ったものとして感じ、しかし白人と対等には扱われないという、どちらにも所属できない不安定な人生を送ることになる。
こうした強制的に引き離された人々は「盗まれた世代」と呼ばれている。
アボリジナルがようやく「人間」として扱われるようになっても、問題は解決したわけではない。
アボリジナルは本来先祖代々の土地と結びつく生活形態であるにもかかわらず、政府によって土地と切り離された。
その結果男性はコミュニティ内での役割を奪われ酒にはしっていく。
アボリジナルの拘禁率は異様に高いが、それは「彼らが野蛮な民族だから」ではなく「生まれながらに不利な立場を強制され差別され続けているから」である。
誰に非があるかは明白だ。
こうした政策は「白豪主義」と呼ばれ、文字通りこの国は「白いオーストラリア」を目指していた。
今でこそアボリジナルアートが公共の場で使用されたり、先住民文化を知るツアーが主要な観光資源の一つとなっているが、つい数十年前まで「黒い彼ら」の文化を否定し続けていたのだ。
メルボルンやシドニーにいるだけではアボリジナルの存在は見えにくい。
いくら公共施設の但し書きやアナウンスで「先住民に敬意を払っている」と言っても、大都市の表舞台に出てくる人々の大多数は白人なのである。
わたしは6年前、西、北、中央オーストラリアを旅して初めて「彼ら」を見た。
ブルーム、アリス•スプリングス、ダーウィン、キャサリーン。
そうした町ではじめて本の中の「彼ら」が実在すると認識した。
見えない存在であれば差別は他人事ですむ。
日本でも霞ヶ関の人間には貧困が見えないのではないかと感じるが、オーストラリアでも、シドニーやキャンベラからどれだけアボリジナルが見えているのか疑問である。
先住民だけでなく、移民もまた対等な社会経済構造の中にはいない。
ワーホリ中、オーストラリア西部のイチゴファームで働いたことがあった。
そこではわたしのようにワーホリで来たアジア人や、さまざまな国からの移民が働いていた。
季節はずれのイチゴファームは収穫できるイチゴが少なく、長時間腰をかがめて作業をしても歩合制の給与は微々たるものだった。
他のファームで数倍稼げていたわたしはすぐにイチゴファームを辞めたが、ここで家族を養っている人々は辞められないだろう。
ターバンを巻いたおじさんたちは今もそこで働いているのだろうか。
オーストラリアのスーパーで安いイチゴを見るたび、わたしはそのファームのことを思い出す。
見えていないだけで日本も同じ構造であろうが、オーストラリアの第1次産業を支えているのは移民や外国人なのである。
後編へ。
(メルボルンではちょうど写真展が行われており、中心部を歩いていると、国内外の歴史的瞬間を捉えた写真が大きく掲げられていた。
これは1975年、当時の首相がアボリジナル Gurindji族の長老に、彼らの土地だと法的に認められた場所の土を手渡しているところである。
アボリジナルの土地権について流れが大きく変わった瞬間。
しかしもともとこの大陸に住んでいたアボリジナルが、後からやってきて全てを奪った白人の法にのっとり、白人が納得するような証拠を出して土地との結びつきを証明しなければならないこと自体が理不尽である。
ちなみにGurindji に関しては日本人の歴史家、保苅実の『Gurindji Journey』で知った。
この本はわたしが今まで読んだ本のなかでベストテンに入る面白さ。
アリス・スプリングスの博物館でスタッフの女性が「この本を読んでアボリジナルへの理解の仕方が変わった」と言って勧めてくれ、読むと本当にその通りの内容だった。
日本語でも『ラディカル・オーラル・ヒストリー』として出版されている。
アボリジナルの人々にとっての「カントリー」の概念は、この本を読むとイメージがわく)