宗教 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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Das ist ein Tagebuch...

 坐禅をやっている。何故やっているのかというと、見性したいがためである。見性とは、事実を見ることである。実は我々は、物心ついてこの方、事実を見たことがない。それ故、大きな勘違いをしながら生きている。その勘違いとは、「私がいる」、という誤解である。この誤解のために、大いに苦しむことになる。事実に反しているからである。

 

 誤解を解消し苦から逃れるために、坐禅をするわけである。それで、肝心の坐禅のやり方であるが、黙って坐っているだけである。具体的には、日頃常にやっている思量分別をやめ、生の事実に在り続けること、これが坐禅の中身であるが、これ、誰にでもできる内容である。しかし、見性する人は少ない。何故か?結果が出る前にあきらめて、止めてしまうからである。

 

 閑話休題、上記の話と関係がないわけではないが、余計ごとと言ってしまえばそれまでではあるが、長年、自分が本来どうあるべきか、それについて考えてきた。それで、そういったテーマを扱っている哲学や宗教に興味を持ってきた。しかし、これは昔から感じていたことであるが、既存の宗教組織、つまり、〇〇教会とか何々宗と称するものは、私見では、宗教とは何ら関係がない、単なる人を支配する道具である。近づくべきではないし、もちろん、積極的に関わるべきではない。

 

 新興宗教はもとより、伝統宗教と言われるものも、基本的に胡散臭い組織であるということは、普通の良識ある日本人ならば、誰でも感じていることであるとは思う。そうであるとは思うが、仏教にしろ、キリスト教にしろ、本来の教えは素晴らしいものであるのに、あるいは、牧師や僧侶の方々一人ひとりは立派な方がおられるのに、それを奉じているとされる組織が、どれもこれも、大変品のない表現ではあるものの、敢えて述べれば、滓そのものであるのは、本当に不思議である。

 

 組織というものは、基本、あまり好ましいものではない。殊、宗教に関しては、組織化は、即堕落の始まり、形骸化の始まりのように思われる。しばしば指摘されるところであるが、お釈迦様やイエスは、仏教やキリスト教、宗派や教会など、創設することも組織化することも、考えておられなかったはずである。

 

 本来、宗教とはあくまで個人的な事柄であり、組織や集団、権威や諸制度に馴染むものではない。宗教(真理の追求)とは、ただ一箇の個人が心底納得すればそれで足りることであり、硬直的な教義やドグマはもちろんのこと、大袈裟な儀式儀礼や権威付けられた印可、証明の類、それに煩雑な叙任手続き、ましてや大掛かりな組織化等を要するものでは決してない。

 

 それゆえ、仏教もキリスト教も、宗教を今一度、個人の手に取り戻さなければ、衰退、滅亡するのは目に見えているのである。そんなわけで、志のある求道者は、宗教を個人の手に取り戻すためにも、大願成就のために、形骸化した既存組織や団体等に頼ることなく、関わることなく、各々地道に修行に取り組んでいくべきであろう。そんな風に私は思っている。