自他 | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 自分とは何か。ほとんどの人は、この身と心が自分である、あるいは自分のものであることに疑いを抱く人はいない。「私」とは自明なもので、その存在は疑い得ないものとみなされている。しかし、この身と心が自分であるなどと、本当に断定できるのであろうか。そもそも、自分とか、私と言われるものは、何なのであろうか?

 

 繰り返しになるが、自分や私と言われるものは、一般的に、この身体と心(精神)を指す。しかし、「私」とか「自分」というものは、単なる名称、概念であり、実体を持たない。その証拠に、この身体が「自分である」とか、あるいは「私である」と主張したことは、一度もない。

 

 一方で、現実にあると言い得るのは、色や音、香りや味、感触である。このどれにも私や自分はない。私や自分とは、これら諸感覚の恣意的な組み合わせに過ぎない。つまり、私や自分とは、あくまで思考の産物なのであり、つまり、虚構なのである。


 それで、仮に実在するものを「自分」とする場合、今、目の前に見えているもの、それが自分である。例えば、人(と呼ばれる現象)が見えるとする。それは実は、自分そのもの、あるいは、自分の様子の一部なのである。この世界に存在しているのは、自分だけである。現実に、自分と他人、自他の区別があるわけではない。

 

 自他の区別は、社会生活を円滑に営むための決め事(世俗諦)、あるいは、単なる自分自身の主観的作為にすぎない。自分が意図的にこの身体を「自分」と見なし、それ以外を「他」としているに過ぎない。実際にはそのような線引や区別は、一切存在しない。

 

 したがって、「他者」と認識された現象に対し行った身口意の行為は、当然に、「自分」と認めた現象にそっくりそのまま返ってくる。この現象界は、極めてトリッキーなのである。あるいは、現実世界は、我々が「現実」と思いこんでいるものとは、ずいぶん異なる、不思議な世界なのである。

 

 そうとはいえ、しかし、「他者は自分」という事実は、比較的容易に理解できる。例えば、真心からある人に好意を持てば、その人も好意を持ってくれるだろうし、逆に、ある人に嫌悪感を抱いていれば、その人に嫌われるものである。親切にすれば親切にされ、虐げれば虐げられ、与えれば与えられ、奪えば奪われ、救えば救われ、殺せば殺されるものである。ある意味、単純なものである。

 

 その一方で、能力があり、野心があり、自分だけがいい思いをしたいと望み、それを達成するために、ありとあらゆることをし、あるいは法に反し、あるいは道に反し、人を押しのけ、引きずり下ろして、恵まれていると思われる地位、立場にのし上がろうとし、それを実行する人がいる。哀れな人である。

 

 彼が実際には何をやっているのかというと、全力で自分と他人を苛み、虐げ、そして結局は、自分と他人を不幸にしているだけである。そういった人は、生きているときも地獄、そして、死んでからも、おそらく地獄の住人となる、哀れな人である。