カトリック教会と虐待事件 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 見ているドイツ紙(ZEIT NR. 07/2021)に気になる記事が掲載されたので、例によって雑ではあるが、和訳してみる。タイトルは、"Missbrauchsfälle in der katholischen Kirche: Schluss. Aus. Amen!"(カトリック教会での虐待事件:もう終わり。アーメン!)とでも訳せようか。「ケルンのヴェルキ(Woelki)枢機卿の事件は再び明らかにする。すなわち、聖職者の並行社会として、カトリック教会は自由民主主義に適合しない。状況はもはや他の見解を許容しない。」Raoul Löbbert による記事。彼自身、カトリック教徒とのこと。以下、内容である:


 我々はカトリック教会の数多くのスキャンダルには慣れているが、この事件はかつてないほどの影響を与えている。ケルン大司教のレイナー・マリア・ヴェルキは、影響を受けた人々を欺くため、彼の司教区での性的虐待に関する見解の公表を数週間拒否したためである。約束を破り、批評家を懲戒処分で脅迫し、2つの事件で加害者を庇ったとされているため、大司教区の多くのカトリック教徒が教会を去り、その処理のために所管の地方裁判所は忙殺されている。

 カトリック教会を去りたいならー今列に並んでいるならー4月まで待たなければならない。そしてケルンの枢機卿は?ぎこちなさと頑固さを混じえて、彼は自分の良心に従って調査したという結果を発表する。すなわち、些細な誤りを除けば、すべてが正しく行われた、と。

 カトリック教徒と教会から離れた人々の両方が自問する:何がこの男だけではなく、こんな制度を許容するのか?同じような状況では政治家やCEOはずっと以前に辞任するはずなのに。しかし、通常の責任のルールはカトリック教会には適用されないようである。これがまさに問題である。すなわち、今日の制度的カトリックは、あたかも民主主義時代以前の時代錯誤主義のように、世俗化、自由化、個別化が急速に進んだ環境で機能しているが、CDUのようにイデオロギー的により機敏な制度でさえ、もはやこの世界を理解できない。要するに、ますます多くの人々にとって、カトリック教会は、並行社会のように、国家の中の国家として作用する。そして、教会は実際にはそのうちの一つではないのか?

 もちろん、このような比較は、自由主義および民主主義的に何の問題なく行動し、投票し、法と秩序を順守する、十分に統合された何百万ものカトリック教会の納税者を含めると、不適切で不公平である。そして、ケルン大司教(そしてその他の教会諸侯たち)の態度に関しては、彼らは無宗派の不可知論者と同様にーあるいはそれ以上にー頻繁に首を横に振る。結局のところ、カトリック教徒は、まだこの教会が彼に個人的に影響を与えていると感じている。

 平行社会としての公式の教会を意味するならば、この比較は適切で明白である。すなわち、それは、その排外主義的組織の精神とその傲慢さ、その奉献と入団の儀式、その時代精神への懐疑、および、司教として神と教皇にのみ責任を負うという、自己イメージをともなう聖職者の門閥である。「教会」は、「すでにその歴史の中でずっと生き延びてきた。それは民主主義でも生き残る」と、数年前に私との背景討論で補佐司教がカトリック哲学を要約し、そう述べた。彼はそれを真剣に言っていた。

 国家はこの教会の自己イメージを受け入れるだけでなく、それに優先的な政治的および法的待遇を与えている。国は教会に独自の税金、独自の刑法および労働法を付与し、政党、行政、および企業でさえ現在一般的であるように、女性の昇進どころか、カトリックの司教区事務所から女性が除外された場合も、無関心であり続ける。特権が歴史的に正当化されることは、よくあることである。ナチス時代とSED政権という、2つのドイツの独裁政権の間、教会は世俗的な力で自らを満足させる傾向があったにもかかわらず、自由に考える人々の避難場所であった。これが、今日でも教会が意味を生み出す制度と見なされている理由の一つであり、法哲学者エルンスト・ヴォルフガング・ベッケンフェルデの口述によれば、少なくとも理論的には、それは保証できない自由民主主義国家の前提条件を作り出すのに役立つ。

 しかし実際には、すべてのスキャンダルでそれはより明確になる。すなわち、カトリック教会と国家の間の平和共存はますます善よりも害悪を引き起こしている。たとえば、虐待事件について考えてみよう。すなわち、ケルンの報告書は司教区の金庫に保管されている可能性があるが、他の教区での同様の調査やケルンの通常の文書からの漏洩文書は、被告人が聖職者の場合、裁判所と検察庁が数十年にわたって特に温情的であったことを示している。

 世俗の権力は、教会が黒い羊をその群れから引き離すという教会論的な権力を盲目的に信頼していた。しかし、それはしばしば機能しなかった。有罪判決を受けた司祭でさえ、通常、その虐待者の過去の経歴について周知されることなく、新しい教区に移動となった。犯罪者は牧会で働き続けることを許され、そこで彼らは再び犯罪者になった。

 そして国は? それでも、すべてが彼の仕事ではないふりをして、虐待スキャンダルの処理を教会に任せる。今日、国はその悔い改めを称賛し、時には出版され、時には出版されない「独立した」研究を委託する。または部分的にのみーちょうどベルリンの大司教区のように。最近、600ページの虐待調査が発表され、個人的な責任について440ページが欠落している。ベルリンのハイナー・コッホ大司教の要請により、それは別途通知があるまで内部に保留される。これがカトリックの透明性である。

 2018年には早くも、刑事弁護士のラインハルト・メルケルと他の5人の法学教授が未知の人物に対して訴訟を提起した。検察庁は、司教区事務局に対し捜査を行う権限を与えられるべきである。メルケルによれば、虐待行為の「刑事訴追」は「必要な範囲でまだ行われていない」。教会の解明努力は、依然として国の機関に対する防御を伴っていた。「それは立憲国家では受け入れられない。」

 受け入れられないが、残念ながら驚くことではない。結局のところ、虐待は個人の不正行為だけではない。2018年のドイツ聖職者会議の大規模な研究結果によると、カトリック教会のシステム全体が失敗しており、改革されるべきである。これは、性道徳、男性の絆、そして民主主義以前の権力の理解、つまりカトリック教会を並行社会として認定するすべてのものを指す。

 それはケルン大司教区、ヴェルキ枢機卿、および、ドイツのカトリックにとって何を意味するのか?いずれにせよ、基本法と国家ー教会の関係は、教会を自己矮小化から救うことができるほど迅速に改革することはできない。これを行う政治的意思は存在しない。そして司法は、間接的に圧力をかけることにより改革を促すことしかできない。ドイツではなくても、すでにそうなっている場合もある。たとえば、いくつかの基本的な判決により、欧州司法裁判所は近年、労働法に基づく教会の特別な地位を攻撃した。そのため、この国の新しい状況にも労働法を適応させるように強制した。一例を挙げると、ドイツ聖職者会議の書記は、今日ではもはや司祭である必要はない。少なくとも求人広告によれば、女性やさまざまな人々が正式に応募できるようになった。したがって、原則として並行社会の開放は可能である。

 しかし、これは多くの側面から圧力を受ける必要がある。たとえば、より影響力のある政治家が、この虐待スキャンダルの10年目に、教会の壊滅的な状態について明確な言葉を見つけることができれば、そして、司教たちと敬虔に握手する代わりに、政治的基盤の表舞台で彼らの対峙したときに、それは始まりである。あるいは、メディアからの圧力。すなわち、教会の屋根の下での虐待の何千人もの犠牲者を思い出すために、公共放送局のテレビ礼拝の代わりに1時間の黙祷を放送して欲しい。またはケルンからの圧力。すなわち、最近起こったように、ケルン枢機卿がケルン大聖堂のクリスマスミサを悪用して、自らの誤りではなく、彼の恥ずべき報告について、出席した人々に謝罪したとき、立ち上がって出て行って欲しい。枢機卿、あなたが仰っていることは間違っています!と。

 結局のところ、ミュンヘン大司教ラインハルト・マルクスとリンブルク司教ゲオルク・ベツィンクは、ケルンの兄弟の行動についてコメントしなければならないことを理解した。彼らは最近、「災厄」(Bätzing)および「非常に否定的な」効果(マルクス)という表現で、Woelkiを厳しく批判した。

 象徴主義は、特にカトリック教会において効果を有する。これは、社会から大きな距離を保ち、演出されるかもしれない。しかし同時に、教会はこの社会の信頼と善意に依存しており、そのことを知っている。なぜならば、それは、耳を傾け、尊重され、真剣に受け止められることを望むからである。しかし、注意して欲しい、聖職者の派閥は、それ自体が目的ではないこと、今こそこのことを思い出さなければならない。信頼は獲得されねばならない。長期的には、いかなる社会も並行社会を容認することはできない。まさにこの理由のために、教会は、民主主義や法の支配より持続しようとすべきではない。壁龕に籠もっていても、長期的には変化から身を守ることはできない。そこは非常に孤独である。そして結局は、誰も関心を持たなくなる。


 以上である。この事件、コロナ禍のドイツ社会を揺さぶっている事件の一つで、ニュースや新聞等でもよく取り上げられている。この事件の影響で、カトリック教会からの脱会者が急増しているとのこと。この記事の執筆者が相当怒っているのも、インテリ御用達で有名なこの新聞に果たして相応しいのかと思うぐらい、激情的な論調からわかる。

 近年、世界的に伝統的宗教・組織に対する信頼性が揺らいできているのだろうが、ドイツでは、2000年続く絶対的とすら思えた宗教権威が、今まさに崩壊しようとしているのだろうか。そしてこうした傾向は、この極東の島国日本でも例外ではないであろう。中身がないのに、伝統や権威の上に胡座をかいているだけならば、いつか見破られ、社会から見放されるだけなのではないのか。