縁起(23) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 ここで私たちが関わっている原則は、美味しさに関わる欲望や満足、または興奮した刺激や喜びは、食べ物を味わうときにのみ、生じるということです。咀嚼、食事、そのような活動がない場合、そのような感情は発生しません。したがって、私たちが話していることのいずれも、食べ物を咀嚼しているときに、舌に良い味の感覚がある場合にのみ、発生する可能性があります。舌の意識はその食物によって確立され、そこで完全に生じます。これが長く生じるほど、より多くの意識が生じ、展開します。

 これは縁起によると意識(識)です。精神的形成(行)が識を生み出すと言われる場合、それは「再生意識」を意味するのではありません。しかし、それは相対的な真実の言語しか知らず、存在と誕生にまたがる「自分」を持っている人々によって、再生意識の事柄にされています。繰り返しになりますが、私がすでに説明したように、その機能を実行し、縁起の回転で執着、存在、および誕生を引き起こす意識は何であれ、そうすることを繰り返さなければなりません。それは、一連の「私」の妄想を連鎖させるという意味でのみ、「意識を結びつける」と呼ばれることがあります。

 食べ物を咀嚼している間、強い喜びと満足によって生じ、展開するこのような意識は、単なるごく普通の意識であることを、皆さんに知っていただきたいと思います。それは無明に関連する意識ではありません。本当の意味での縁起の存在と誕生を生み出すのは、普通の縁起の意識です。ここで、そして今、そして多く存在します。「名色は響き渡る」(40)と言われるとき、それは単に、その時、口の中で咀嚼されている食べ物の美味しさを、知覚し感受することを意味します。ちょうどこの瞬間、心身はその全機能を実行します。それは、名色、心身が生まれ、死に、棺桶に入って、また生まれ変わるわけではありません。

 「行の完成」と呼ばれるものは、縁起における行を意味します。それは、身体、発話、心、存在、頑強さ等を醸成します。パーリ経典では、「行の完成」と書かれており、美味しい食べ物を咀嚼する瞬間には非常に素早くなります。それは、新しい存在と新しい誕生を生み出す可能性があります。つまり、新しい「私」の妄想、そしてまた別の「私」の妄想、そしてまた何度も何度も。「私」、「私」、「私」...すべてが大きな塊の中で互いに重なり合って連鎖しています。これが、行の完成と呼ばれます。

 「私」の妄想に関係する問題は、生、老、病、死などの多くの問題であり、そして苦しみは多くあります。そして仏陀は次のように続けました:

 「比丘たちよ!今後、生、老、死がどこにあっても、私たちはそれを悲しみ、塵芥、そして苦難に満ちたものと呼びます。」

 生、老、そして死に関する困難で心を乱す問題は、それらのものを「自分」、「私の」に属するものと見なす、「私」の妄想への執着のために、生じています。

 生、老、そして死の問題は、どこにでも、あるいは何にでも現れる可能性があります。仏陀は、そのようなものが、悲しみ、塵芥、そして苦難に満ちていると言われました。つまり、「私」の妄想の新たな存在は、悲しみ、煩悩、不満に満ちているということです。強烈な喜び、渇愛、満足感のある、美味しい食べ物を咀嚼する短い時間に、無数の新しい存在や誕生が生じる可能性があります。これはまた、行を引き起こします。それは完全であり、縁起の輪の一回転に相当します。 
 

 

実践の基礎、あるいは縁起の放射輪
 

 

 添付の図に基づく実践の基礎は、かなり奇妙です。私はそれを「縁起の放射輪」と呼んでいます。それは発生から始まり、滅尽へと続きます。そして興味深いのは、それが「苦しみの恩恵」を示しているということです。

 これに関する仏陀の言葉は、かなり奇妙な、苦しみを滅する順序について語っています。仏陀は次のように言われました:

 「知っている人と見ている人のために、私は話します。知らない人や見ない人のために、私はāsava(漏)の滅尽について話しません。」

 āsava(41)の滅尽は、五蘊の発生と消滅の性質を見るときに生じます。漏の滅尽に関して、仏陀は、五取蘊、すなわち、身体(色)、感覚(受)、認識(想)、精神的形成(行)、そして意識(識)、の発生と、その発生と消滅の性質を知見したときに、それらが滅尽する可能性があると言われました。 これらの性質と、それらの発生と消滅の性質を本当に知っているとき、それは漏の終焉を意味します。この知識のおかげで、漏の滅尽が生じるでしょう。仏陀は、自分がそのことを知っていて、そのことを見たので、それについて話すことができると言われました。もし仏陀がこれらのことを知らず、見なかったら、このように語らなかったでしょう。

 漏の滅尽が起こった場合、その滅尽の意識があります。この、漏の滅尽についての知識は、解脱があるときに生じます。解脱または解放は、離貪によって発生します。離貪は、厭離によって生じます。厭離は、如実知見(物事が実際にどのようになっているのかについての知識)によって生じます。如実知見は三昧から生まれます。三昧は一境性によって生じます。一境性は軽安(静けさ)によって生じます。軽安は楽によって生じます。楽は喜によって生じます。喜は信によって生じます。そして信は苦を条件として生じます。

 今、問題は縁起に移ります:苦しみは出生に基づいています。出生は有(なること)に、有は執着に、執着は渇愛に、渇愛は感覚に、感覚は接触に、接触は感覚基盤(処)に、処は名色に、名色は意識に、意識は行に、行は無明に、基づいています。

 これは、漏(āsava)の終焉は、信に至るまで、言及された順序で、すべてのさまざまな条件に依存することを意味します。もし私たちが仏法僧に信があり、修行が苦を終わらせると確信しているなら、これは「信の始まり」と呼ばれます。それでは、すべての条件を遡ってみましょう。

 

信によって喜が生じます。

喜によって楽が生じます。

楽によって軽安(静けさ)が生じます。

軽安によって一境性が生じます。

一境性によって三昧が生じます。

三昧によって如実知見(絶対的な知識)が生じます。

如実知見によって厭離が生じます。

厭離によって離貪が生じます。

離貪によって、解脱が起こります。

 

 そして、解脱の知識が得られたので、漏の滅尽と信の始まりがあります。

 信は苦しみに依存しています。これは奇妙なことです。こんな風に聞いたことがある人は、あまりいないと思います。私たちが持っている信は、苦しみの所以です。苦しみが圧迫しなければ、私たちは仏陀に帰依することはありません。そうではありませんか?私たちは帰依処として仏陀に駆け寄ります。私たちは苦しみに圧迫されてきたので、仏陀をしっかりと厳格に信じています。ですから、私たちの生活では、苦しみは信の条件になり、苦しみは善いものになりますーあの本当に醜いヒキガエルの額にある宝石のように。苦しみの中に、私たちを仏陀に駆け寄らせ、信を持つように駆り立てる宝石が現れます。

 無明、行、名色などに起因する苦しみが信の基盤であるという仏陀の言葉は、私たちに、それらを思い煩ったり、恐れたり、軽視したりすべきではないことを示しています。私たちが縁起をうまく使うならば、苦しみは信の基盤になり、信は漏の滅尽まで、法が発展することを可能にします。このように苦しみを見るのは、醜いヒキガエルの額にダイヤモンドを見つけるようなものです。しかし、通常、人々は、ヒキガエル、ネズミ、ヤスデ、芋虫などを嫌い、恐れます。人々はあらゆる種類のものを恐れます。しかし、苦しみが信の条件であり、それが信仰の開花の基盤であることを知っているなら、苦しみは役に立つものになります。

 かなり多くの資料を取り上げました。よく調べて勉強しない限り、すべてを覚えるのは容易ではないと思います。いずれにせよ、ここで簡単な要約を提供します。 


(続く)