縁起(24) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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結論

 

 

 結論として、縁起に関しては、次のように言うことができます。

(1)世界、その生起、その滅尽、およびその滅尽への道はすべて、縁起の発生または消滅の循環で、感覚的な接触があるときに発生します。これらはすべて、生きていて死んでいない、この等身大の体にあります。

(2)一連の縁起が、相対的な真理の言葉で言われているように、三つの存在や三つの誕生にまたがる、あるいは任意の存在や誕生にまたがる方途はありません。縁起という言葉の文字通りの解釈をとっても、そう考える理由はありません。

 縁起という言葉は「依存する」という意味ですが、それは隙間を認めない一種の依存の連続です。一連の依存の連続があります。譬えてみれば、次のように進行します:太陽に依って、地球は存在します。地球に依って、水があります。水に依って、蒸発があります。蒸発に依って、雨雲があります。雨雲に依って、降雨があります。降雨に依って、道路が濡れます。濡れた道路に依って、Aさんは滑る。 滑ったのでAさんは頭を割った。頭を割ったので彼は医者に行きます。医者に行くので、彼は治癒します。

 連鎖はどこでも中断できますか?いいえ。各条件は、間髪を容れずに、即座に連続する必要があります。それが、"paṭicca"の意味です。縁起とは、条件に依存して発生するという意味であり、三回の出生と存在に分けることはできません。

 実際、縁起は四諦に関係しているので、条件を分割する理由はありません。それは日常生活における四諦の事柄です。縁起が三回の出生に依存する事柄である場合、それは私たちにとって何の利点もあり得ず、遅滞なく自分自身の中に見ることや、自分自身が直接体験したりすることは、あり得ません。そして、縁起が三つの出生にまたがるという見解を保持するなら、漁師の子息であるサーティ比丘のような、常見論の誤った見解の保持者になります。

 誰かが縁起を三つの生涯または出生に分割する場合、それは真実の探求のない、単なる道楽の、お遊びの研究のようなものです。縁起に関する気楽な研究と議論です。それは深遠であるほど面白いものですが、実践できないので全く価値がありません。ここでは、ある程度の制御を可能にするために、元のパーリ経典による、正しい実践的な縁起が必要です。つまり、実用的な方法で使用できる必要があります。それは私たちの管理の対象です。縁起が三回の生涯に及んでいるようなものは、治癒不能の一種の腫瘍や癌のようなものです。

(3)問題の核心は、子宮内の胎児や何も知らない幼い赤ん坊ではなく、十分な年齢に達した人に感覚的な接触があるたびに、縁起が機能するようになることです。その人は何かを知るのに十分な年齢に達している必要があり、感覚の接触は気づきや知恵なしで、しかし無明においてのみ、生じる必要があります。外部と内部の感覚基盤は意識を生み出すのを支援し、それはすぐに名色を引き起こし、それはすぐに感覚基盤(処)を生み出し、それはすぐに心身になるか、最初の無明に基づいて行動するための、新しい感覚基盤になります。これはすべて、稲妻のように一瞬で起こります。それが非常に激しい場合、それは驚きでさえあるかもしれません。

 それが非常に激しい場合、驚きの感覚があることを忘れないでください。何かを瞥見したり、聞いたり、何かの出来事を見て驚いたり、肌に何かを感じたりするとき、それは接触がとても素晴らしいからです。驚愕を伴う意識を生じさせる行の場合、驚愕を感じる短い瞬間に、縁起の条件の多くが確立されます。無明から行、識、名色、処、そして接触は、驚愕を引き起こすのに十分強力です。それが私たちを驚かせるのに十分強い場合、すべては縁起に従ってその順序で発生しなければなりません。

(4)縁起は、苦しみ、その発生、そしてその滅尽の事実を示しています。それは、存在と誕生を超えて苦しみを担う、苦しみの所有者を示していません。苦しみの所有者は、存在しません。苦しみは所有者なしで生じます。縁起が示しているのは、苦しみの発生と消滅であり、発生して消滅する苦しみの所有者ではないことをご確認ください。また、原因と条件の原理を詳細に示しているため、実用的であり、この世界の何ものとも異なります。

 今、私は告白したいと思います:私は仏陀の意図に従わなかった縁起を研究しました。まだ学生だったので仕方がありませんでした。 そしてその後一年間、私は三回の出生にまたがる誤った方法で縁起を教えました。ですから、私は今、懺悔して許しを求めたいと思います。そして、私たちが制御する手段の範囲内であり、実践できる縁起を発見するために、この数十年にわたってあらゆる事を試みてきたことを断言します。それは、気づきをもって、接触が発生するとすぐに保護するために使用することができます。これは、実践できる唯一の有益な縁起です。

 「どうすれば実践できるのか」と聞かれた場合、唯一の答えは、感覚的な接触があるときに注意を払うことです。気づきを忘れないでください。無明が識、名色、そして苦を経験するような感覚基盤を醸成することを許容してはいけません。元の状態のままであることを確認してください。苦しみがないので、生まれるのではなく、sambhavesīである方が良いです。

 これからも皆さんすべてが正確な理解をして下さるよう、お願い申し上げます。縁起を正しく理解してください。美味しい食べ物を食べている間でも、縁起は何度も何度も起こる可能性があります。

 この縁起の説明は、私がタイ国内だけでなく、世界中から大声で批判されることにつながる可能性があります。なぜなら、縁起が教えられるところはどこでも、それは存在と誕生を超えて教えられるからです。私は単にsuññatā(空)とアビダンマについて話しているだけですが、タイではすでに大声で批判されています。しかし、縁起について話すとき、私はそれがより広範囲の反応を引き起こすと確信しています。しかし、私は「仏陀のしもべ」なので、自分がなすべきことをしなければなりません。私は、仏陀を損なう如何なるものに対しても、闘わなければなりません。ですから、たとえそれが宇宙全体であっても、世界はもちろんのこと、誰もが私を批判することを恐れません。

 つまり、これは、存在と誕生にわたらない縁起の説明であり、存在と誕生にまたがる縁起の説明です。私が示したように、両者は異なります。存在と誕生にまたがる種類は役に立たず、実践することはできません。自己認識のない哲学者の、大声でのおしゃべりのためにそれを残してください。実践的な種類の縁起については、仏陀ご自身が教えてくれました。それを受け入れるならば、私たちは苦しみを滅することができ、常見論者や断見論者とは関係がなくなります。それは完全に完璧かつ実用的です。

 これらはすべて、研究に興味のある人たちに提供する私からの助言であり、彼らが最も詳細に研究できるようにするためのものです。


ブッダダーサ インダパンニョー(Buddhadāsa Indapañño)

モッカバラーラーマ(Mokkhabalārāma)

2521年/1978年 ウェーサーカ 


(終わり)