縁起(22) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

(3)さて、最も重要なことは、一連の縁起全体が非常に迅速に作動するため、捕捉することができないという点です。それは稲妻と呼ばれることもあります。稲妻は非常に高速です。生じたらあっという間に消えます。そして、その非常に短い間に、私たちがそれを全く知らないうちに、縁起の十一の要素あるいは十二の条件がすべて発生し、それらの機能を発揮し、そして迅速に滅するかもしれません。怒っているとき、私たちは苦しみます。あっという間に、私たちは怒りと苦しみを経験します。これは、一つの縁起の完全な作動です。私たちは、その短い瞬間に、無明から行、識、名色、六処、触、受(感覚)、渇愛、取(執着)、有(なること)、生への十一の要素が発生し、消滅したことに気づいていません。瞬間的に十一個すべてが順番に並んでいます。ですから、例えば、私たちは目で何かを見て、すぐに完全で全体的な欲求や嫌悪感が生じます。これは稲妻です。しかし、その短い時間は、まとめて縁起と呼ばれる十一の要素に分析できます。

 Loka Sutta(38)で、仏陀は、次のように縁起を参照することによって、世界、その生起、その滅尽、およびその滅尽への道を説明しています。

 「比丘たちよ!世界はどのように生起しますか?目と色によって条件付けられて、目の識が生じます。これら三つが一緒になるのが触です。触を条件として、受(感覚)が発生します。感覚を条件として、渇愛が生じます。渇愛を条件として、執着が生起します。執着を条件として存在(有)が生まれます。存在を条件として、生が生起します。生を条件として、老、死、愁、悲、苦、そして悩が起こります。 比丘たちよ!これが世界の生起です。」

 一般的に関連する縁起の発生は、仏陀が「世界の発生」と述べたことです。苦しみの発生は世界の発生であり、それは内部および外部の感覚基盤(処)が接触し、意識が生じるときにのみ、発生します。

 今では、無明が行、識、名色、感覚基盤を生み出すことから、これらすべての個々の要因を区別することは困難です。なぜなら、それらは稲妻よりも速いからです。私たちが最初に知っていることは、私たちには、楽や苦、快適あるいは不快な感覚があるということです。世界の終焉についても同じです。それは無明、行、識などで消滅する可能性があり、それはまた、苦の消滅です。このように、世界の発生と消滅が説明されました。しかし、その発生が稲妻よりも速いのと同じように、その消滅も同様です。したがって、縁起の細部に特に関心がなければ、縁起は稲妻と同じくらい速いので、十一の要素があることを理解することはできません。

(4)今度は、もう少し存在と誕生を明確にしたいと思います。死んで棺桶に入るのではなく、一日に何度も生まれ、存在します。

 一口の食べ物を口の中で咀嚼し、まだ嚥下しない間に、多くの存在(有)と多くの誕生が起こる可能性があります。たとえば、食べ物を嚥下する前に咀嚼するのに2分、場合によっては1分かかるとします。その60秒間で、あなたの考えが食べ物の味の良し悪しについてあれこれと思いなしたり、食べ物の味に関してその他諸々の考えに夢中になったりするかもしれません。このごく短い時間に、「私」の妄想と「私のもの」の妄想は、あなたが食べ物を嚥下して、もう一口食べる間に、あれこれと起こるかもしれません。食事を終えるまで、あなたは無数の存在と誕生を経験しているかもしれません。あなたが偉大な思想家や感覚家である場合、または環境が気を散らすもので満ちている場合、一度の食事で、あなたは多くの存在と誕生を経験しているかもしれません。

 これに関して仏陀は言われました:

 「比丘たちよ!物質的な食べ物に、欲望、喜び(nandi)、そして渇愛がある場合、意識はそこに確立され、その食べ物に完全に展開します。そして、意識が確立されて展開するところならどこでも、心と体の展開もあります。」(39)

 あなたはこれを正しく理解していますか?意味が深すぎて正しく理解できない可能性があるので、理解できるまで読み直してください。

 一口の食べ物を咀嚼している間、それを美味しいと思い、その美味しい味に対する強い喜び、満足、そして渇愛を持っているなら、その瞬間に意識が確立され、完全に展開します。これは、食べ物を完全に咀嚼して嚥下する前に、意識が生じる機会がたくさんあることを意味します。これはいい!美味い!もう少し食べないと!うーん、うーん、いいね!!」このように反応するたびに、意識が生じ、意識が生じるたびに、それは名色の発生を条件付けます。

 感覚は、意識の力に応じて、最初はこのように、次にそのように、心の中で確立されます。そこに、変化してその機能を実行する心身が生まれます。この瞬間以前は、心と体は機能していませんでした。今、それは意識によって条件付けられたその機能を実行するために生起します。意識は何度も発生する可能性があります。名色は、意識の状態に応じて、一口のご飯を咀嚼する空間で何度も発生し、消滅します。ですから仏陀は意識が生じるところはどこでも、つまりこの例では一口の食べ物を意味し、そこにそれが確立されて展開すると言ったのです。名色の発生は、その一口の食べ物にもあります。嚥下した一口の意識は、いずれの場合も同じ意識ではありません。さまざまな種類の感覚が発生しますが、それらはすべて味に関連している可能性があります。そのため、一口の食べ物を咀嚼したり嚥下したりする前に発生する、さまざまな種類の名色があります。

 経典には、さらに別の複雑な問題があります:

 「名色が生じるところはどこでも(例えば、一口の食べ物で)、行の完全性もそこにあります。」

 名色の発生は、それが強力な精神的活動になるまで、行の形成力がますます強くなることを可能にします。

 経典は、さらに続きます:

 「行が完成するときはいつでも、新しい存在の発生もあります。」

 座って食べ物を食べている間、行がその場で働いており、そこにも新しい存在が生起するでしょう。食卓を離れる前に、その場所に新しい存在が生じます。 経典は続きます:

 「新しい存在が生じるところはどこでも、誕生、老、そして死も生起します。」

 この点を相対的真理(世俗諦)の言葉で説明すれば、それは来世の誕生の問題にならなければなりません。しかし、パーリ経典の仏陀の言葉は、そのような解釈を許容していません。 食べ物を咀嚼するだけで喜び、欲望、渇愛が生まれれば、新しい存在になると言われています。 それ以上のことは何も言いません。 

 以上は物質的な食物に関することです。

 他の三種類の栄養素(接触、精神的意志、および意識の栄養素)は、同じ方法で扱われます。これにより、物質的な食べ物の機能が、上記のとおりであることがより明確にわかります。非物質的な栄養素は、さらに高速です。心だけから生じる非物質的な栄養素は、さらに迅速な方法で新しい存在と誕生を生み出します。これは、この経に関して見出さねばならない事実です。
 

(続く)