仏教を理解する(3) | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

 一部の学者はこれに同意せず、涅槃は非暴力の最高の形態であると言うかもしれません。私は彼らの主張を受け入れますが、非暴力には社会的なものと個人的なものという 二つのタイプがあることを忘れてはならないことに注意してください。

 

 平和と社会的調和を促進する宗教の社会的側面ー誠実さ、善良さ、慈悲ーは、石器時代以来本質的に変わらず、社会にとって最高の真実です。

 

 しかし、個人の宗教的ニーズは絶えず変化し、進化してきました。アヒンサーのより深い意味の発見、特に最も恐ろしい形態の暴力は、自分自身を傷つけることであるという認識につながったのはこの事実です。これにより、自分の心の中にある精神的な敵、つまり心の汚れが発見され、これらの心の汚れ(煩悩)が内部で暴力を振るうのを防ぐことができれば、もはや外的な暴力もなくなるであろうということが判明しました。

 

 やがて、煩悩を完全に取り除くことができた仏陀が世界に現れ、真のそして最も望ましい平和は、煩悩の欠如であるという教義を広めるに至り、より深い洞察が発展しました。

 

 この敵を逃れた人は、文字通り「敵を逃れた人」と呼ぶことができます。これは、パーリ語のariyaの意味です。仏教に携わる人は誰でも、心の煩悩の破壊に集中すべきであるにも関わらず、物事は正反対であることが判明しています。仏教にやって来る人々は、心の汚れである内なる敵を排除することさえ考えずに、あらゆる種類のものを望んでいます。

 

 物質的な利益のために仏教を研究する人もいます。たとえば、生計を立てるためにそれを教えたり、政治的手段として使用することさえあります。他の人は、比較文学、仏教美術、文化、または哲学に興味を持っているので、それを研究しますが、それらはすべて、心の煩悩の除去とは遠く隔たっています。

 

 それから、宗教への関心が恐れによって動機づけられている人々がいます。霊、神々、その他あらゆる神の力を恐れる者は、そのようなものを信じることを学んだわけですが、彼らは、たとえ彼ら自身の無知に過ぎないとしても、これらの力をなだめることができる宗教を望んでいます。貧困や不幸を恐れる人々は、それらの恐れを和らげるための道具として使用できる宗教を探します。

 

 真の仏教徒は、これがすべての危険の中で最大であることを認識しているため、内なる敵の苦しみや暴力を恐れるだけです。私たちは生まれてすぐにこの敵に出会い、対処法を学ばなければ、死ぬまで付き纏われます。心の汚れを取り除くとき、私たちは苦しみを引き起こす恐れから解放されます。そうすれば、私たちは自分自身と全世界の平和を達成することができます。

 

 仏教は楽観的でも悲観的でもありません。むしろ、簡単に言えば、仏教は真ん中にいると言えます。それによれば、いつ、どこで、どの視点から見るかによって、世界のすべてに長所と短所の両方があることがわかるからです。さらに、仏教は私たちに、執著を作るのではなく、長所に満足せず、短所に悩まされることなく、すべての状況で常に自由で明確な心を持つことを教えています。仏教は単に、物事を外向き、内向き、そし​​て最も深い意味で精神的に見ること、そして苦しみをもたらさない方法で物事に対処することを私たちに教えています。

 

 仏教が否定的であるか肯定的であるかという問題についても同じことが言えます。仏教は否定的ではありません。それは物が存在しないと言っているのではありません。それは物が存在することを認めています。それはただ「私」あるいは「私のもの」として執着すべきではないと言っています。「私」や「私のもの」が何もないと言っても、私たちが物を所有したり使用したりしないという意味ではなく、心の中で物に執着したり、欲しがったりすべきではないという意味です。そうすれば、私たちは心も涼しくなり、身も心も軽やかに生きていけます。

 

 私たちは、物を自分の要求を満たすための便宜的な「召使い」として使用すべきです。持っていることは持っていないことより、価値があるわけではありません。 持たないことは持つことより、価値があるわけではありません。自然な状態を維持するために、私たちの心は持つことも、拒絶することもすべきではありません。 これに対する鍵は、私たちの心を苦しみ、混乱、誇張された喜びから解放することです。仏教は、「欲求」「忌避」を超えて、自由な心をもつことを教えてくれます。したがって、仏教は否定的でも肯定的でもないと言えます。そして、どちらか一方だと言うことができない場合、それは中間にある、というよりは両方の上にあるとしか言えません。

 

 確かに、仏教の教えについての多くの説明は、否定的に見えます。仏教は型破りな真実を指し示しているので、まず第一に、人々が通常信じているすべてを、事実上否定しなければなりません。しかし、それは仏教が否定的であると言う理由ではありません。特に仏教は、私たちが興味を持つべきことや達成すべきことがあることを否定していません。実際、それは、私たちが興味を持って達成すべき何かが確実にあると言いますー「私」あるいは「私のもの」に執着することから生じる、苦しみのない状態。それは、人生、名誉、名声、幸運、あるいは、人々が一般的に信じていることのいずれにもありません。この状態は解放と呼ぶことができます。何からの解放でしょうか?心を圧倒し、その自由を奪うものからの解放です。

 

 解放は肯定的か否定的かを特徴づけることはできませんが、人々はすべてをどちらか一方として見ることに慣れています。それは、昼を夜の反対として見て、一方を肯定的に、もう一方を否定的に考える子供のようなものです。この例を仏教の観点から見ると、昼と夜は正反対ではなく、時間の尺度として互いに関連していることがわかります。また、時間を超えて、したがって肯定的あるいは否定的を超えているものをより深く調べることができます。「否定的」と「肯定的」は時間に適用される場合がありますが、空と涅槃には適用されません。否定的感情と肯定的感情は、私たちが解放を達成するために仏教が取り除こうとしている、多くの愛着のうちの二つにすぎません。

 

 仏教の基本原則は、すべて積極的であると言えます。一部のグループや宗派が外部の観察者には受動的に見えるかもしれない奇妙な技術を発明したという事実にもかかわらず、それらについて受動的なものは何もありません。仏教の本質が積極性であると言うとき、私たちは「何かがなされる」人ではなく、「行う人」でなければならないことを意味します。これまでのところ、トラブルは私たちに何かをしました。しかし、煩悩の道は、私たちが心の汚れに直面して積極的な役割を果たすことを可能にするツールです。

 

 一部の人々は、彼らがじっと座っているならば、戒律を破る方法はないと信じています。たとえば、蚊帳の中で寝ていれば、蚊を殺さないという規則を破らないですむと信じている人もいます。他の人々は、自分たちが心を空にすることができればサマーディに到達したであろうと信じています。あるいは、無常(anicca)、苦(dukkha)、無我(anattā)の真実を見ることができるとき、人はすべてのものに厭離して、もはや何にも執着する力を持たなくなり、そして、この状態は涅槃あるいは空であろうと信じています。

 

 一部の仏教宗派、特に禅には、簡単に誤解される教えがありますーじっと座って、何もせず、何も考えず、何も起こさないでください。そのような指示は、真の空や本来の心について説明していると信じる人もいます。他の人は、煩悩そのものが無我、または自我の欠如であることに気付けば、それが即、問題の終わりであると教えています。そのような見解は、仏教が受動的で活力のないものを教えていると人々に思わせます。これほど真実からかけ離れたものはありません 。

 

 しかし、どうすれば心の汚れに対して、あるいは汚れが浸透している心に対して積極的に行動できるでしょうか。この点は、私たちが行為者であり、かつ行為の対象であるという矛盾に見えるため、理解するのが難しいかもしれません。では、どのような行動が考えられるでしょうか。

 

 私たちは、仏陀の言葉である「自分自身を改善し、自分自身に依拠することができるように」と同じ問題を抱えています。論理に執着しすぎている人は、この偈を理解できないかもしれません。しかし、仏教の実践において、私たちはこの種の行動に正確に備える必要があります。論理的一貫性を要求する人々は、活動が同時に能動的かつ受動的であり、仏教を精神的自殺と間違える可能性があるという考えに混乱する可能性があります。

 

 自立するために自分自身を変えなければならないというとき、私たちは実践者を励ますための有益な虚構(方便)について話します。究極の真実のレベルで話すとき、私たちは「自分」を取り去り、何も「自分」として取り上げられないようにしなければならないと言わざるを得ません。しかし、普通の人はそのような言葉を理解することはできません。だから私たちは有益な虚構に依存します。しかし、教えを真に受けている弟子にとっては、これら二つの真実のレベルは和解することができます。私たちは、人生の中で徐々に発達する「知恵の自己」の助けを借りて、この「自分」を破壊しなければなりません。「自分」が解脱や涅槃を達成するとは言えません。なぜなら、その状態が達成されると、自分の感覚はまったくなく、純粋な自我の感覚さえもなくなるからです。最高レベルの真の活動に達した心は、ただ一つです。

 

 無知の力のために採用された行動は、価値のあるものを何も達成することはできません。したがって、無知の力の対象となる行動は、それがどれほどの混乱を引き起こしても、受動的として分類することができます。一方、知恵に基づく行動は、単にじっと座っているだけであっても、積極的と呼ばれなければなりません。単に所定の位置に設置されているだけで、瞬く間に数百、数千キロワットの電力を生成する、巨大な発電機のように。

 

(終わり)

 

 以上で、ブッダダーサ比丘『私と私のもの』<仏教を理解する>訳了である。「特に最も恐ろしい形態の暴力は、自分自身を傷つけることである。」本質的に、他(人)は自分を傷つけたり損なったりすることは出来ない。他者は自己に対し無力である。今も昔も、常に、自分に実効的に何かを為し得るのは、ただ一人、自分自身である。というのも、他人を認識するのは自分、他人が自分に何かしたと認識するのも自分である。要するに、この世界には、自分しか実在しないからである。