苦の理解(3) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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Das ist ein Tagebuch...

 なぜ今、苦しんでいるのですか?「私たち」が生まれたからです。それ故、私たちは生まれることに終止符を打つように教えられています。これは、身体が生じて滅していくということだけではありません。それは分かりやすく、子供でも理解することができます。息が止まり、身体が死んで、ここに横たわるだけです。これは私たちが死について語るとき、通常意味することです。しかし、息をしている死んだ人?これは私たちが知らないことです。歩いたり、話したり、笑ったりすることができる死んだ人は、私たちが考えたことのないものです。私たちはもはや呼吸していない死体についてのみ、知っています。それが私たちが死と呼ぶものです。

 

 それは誕生と同様です。私たちが誰かが生まれたと言うとき、女性が病院に行って出産したことを意味します。しかし、家で何かに腹を立てたときなど、心が生じる瞬間に、皆さんはそれに気づきましたか?時々愛が生じます。時々嫌悪感が生じます。喜んでいる、不満を持っているなど、あらゆる種類の心の状態。これはすべて誕生に他なりません。

 

 これだけで苦しんでいます。目が不快な何かを見るとき、dukkha(苦)は生じます。皆さんが本当に好きな音を耳で聞くと、苦もまた生まれます。苦しみだけがあります。

 

 仏陀は、苦しみの塊だけがあると言ってそれを要約しました。苦しみが生まれ、苦しみが消えます。これがすべてです。私たちは何度も何度も苦を追い駆けて、それを捕まえます。私たちは、発生と消滅を追い駆けるだけで、苦を本当に理解することは、決してありません。

 

 苦が生じるとき、私たちはそれを苦しみと呼びます。それが滅すると、私たちはそれを幸せと呼びます。それはすべて周知のことであり、発生し、滅します。私たちは、身体と心が生じたり滅したりするのを見るように教えられています。これ以外に何もありません。要約すると、幸福はありません。dukkha(苦)だけがあります。私たちは、苦しみが生じたときにそれを苦しみとして認識します。そして、苦がなくなると、それを幸せだと考えます。私たちはそのように見て、そう思いますが、そうではありません。それはただ苦が停止しているだけです。苦は生じて滅し、生じて滅し、私たちは苦を追い駆けて、それを捕まえます。幸せが現れれば、私たちは喜びます。不幸が現れれば、私たちは取り乱します。それは本当にすべて同じであり、単に発生し、滅するだけです。それが起こったとき、何かがそこにあり、それが滅したとき、それはなくなっています。ここに疑義が生じます。したがって、苦は発生し、滅するだけで、それ以外には何もないことが教えられています。皆さんが十分に深く見るならば、苦しみだけがあります。しかし、それははっきりとはわかりません。

 

 私たちは、苦しみだけがあることをはっきりとは認識していません。なぜなら、苦しみが滅するとそこに幸せが見えるからです。私たちはそれを掴み、それに執着します。私たちは、すべてがただ生じて滅するという真実を実際には見ていません。

 

 仏陀は、物事を要約して、生じて滅するだけで、それ以外には何もないと言われました。これは理解が難しいところです。しかし、本当に法を知覚している人は、何も手に入れる必要がなく、安心して住することができます。これが真実です。

 

 真実は、私たちのこの世界では、誰かに何かをするようなことは、何もないということです。心配することは何もありません。泣く価値はなく、笑う必要もありません。本質的に悲劇的なものや楽しいものはありません。しかし、そのような経験は、一般の人々にとって普通のことです。

 

 私たちの言葉は普通です。私たちは通常の物事の見方に従って、他者との関係を維持しています。これは問題ありません。しかし、私たちが普通の方法で考えているなら、それは涙につながります。

 

 実際のところ、私たちが本当に法を知っていて、それを継続的に見れば、全く何もありません。生じて滅するだけです。本当の幸せや苦しみはありません。幸福や苦しみがないとき、心は平和です。幸福と苦しみがあるとき、生成し、誕生があります。

 

 私たちは通常、苦しみを滅して幸せを生み出す試みである、一種の業を作成します。それが私たちが望んでいることです。しかし、私たちが望んでいるのは本当の安穏ではありません。それは幸福と苦しみです。仏陀の教えの目的は、幸福と苦しみを超えて安穏をもたらす、一種の業を作り出​​すことを実践することです。しかし、私たちはそのように考えることはできません。私たちは幸せを得ることが安穏をもたらすとしか考えられません。幸せがあればそれで十分だと思います。

 

 したがって、私たち人間は、物が豊富にあることを望んでいます。たくさん手に入れれば、それは良いことです。一般的に、それが私たちの考え方です。善いことをすることは善い結果をもたらすことになっています。そしてそれを得るならば、私たちは幸せです。私たちがしなければならないのはそれだけだと思い、そこで止まります。しかし、善はどこで結論に達するのでしょうか?どこにもありません。私たちは往来し、善と悪を経験し、昼も夜も私たちが善いと感じるものを掴むように努めます。

 

 仏陀の教えは、最初に悪を手放し、次に善を実践するというものです。第二に、仏陀は、私たちが悪を手放し、善も手放すべきだと言われました。善も一種の燃料であるため、それに執着するべきではありません。燃料である何かがあるとき、それは最終的に炎を上げて爆発します。善は燃料です。悪も燃料です。

 

 このレベルで話すことは人々を圧倒します。人々はその話を首肯することができません。ですから、最初に戻って道徳を教えなければなりません。お互いを傷つけないでください。自分の仕事に責任を持ち、他人を傷つけたり搾取したりしないでください。仏陀はこれを教えましたが、これだけでは苦を根絶するのに十分ではありません。

 

 何故私たちはこの状態でここにいるのですか?それは生の故です。仏陀が、「生は終わりました。これが私の最後の存在です。如来の生はこれ以上ありません。」と、彼の最初の教え、初転法輪経で言ったように。

 本当にこの点に戻って、仏陀のやり方の原則に従って理解しようと考えている人は、多くありません。しかし、私たちが仏陀のやり方を信じるならば、それは私たちに報いるでしょう。人々が本当に三宝に帰依しているならば、修行は容易です。


(終わり)

 「幸福な人は知恵を発達させません。彼らは眠っています。それはエサをたらふく食べた犬のようなものです。」世俗的に幸福な人が、満腹になった犬のような存在であるという指摘である。世俗の幸福が、ほんとうの意味では不幸に他ならないというわけであるが、それに頷くことができる人は、それほど多くはいないと思う。

 「仏陀は、苦しみの塊だけがあると言ってそれを要約しました。苦しみが生まれ、苦しみが消えます。これがすべてです。」一切皆苦、そのとおりであると思うが、何ものにも執着しなければ苦はないと考えていた。しかし、苦(dukkha)を「取るに足らないもの」「つまらないもの」と捉えれば、まさに「一切皆苦」である。