悪人と大人 | QVOD TIBI HOC ALTERI

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 善人になりたいと努力してきた。人格円満で、思いやりがあり、誰にも別け隔てなく優しい、そんな人になりたかった。しかし、いくら努力しても、そんな人物には、どうしてもなれなかった。仕方がないので、今も悪人でいる。すなわち、人格的にだらしなく、無能で、他人に対する思いやりなど、兎の毛の先程もない、エゴイスト。要するに、凡夫、人間のクズである。

 

 善業善果、悪業悪果なので、当然に、それ相応の報いを受ける。それ相応の人間である以上、それ相応の境遇に置かれる。当たり前である。努力はした。これがその成果である。それならば、特に気にする必要もないし、問題にする用もない。どうしようもないからである。

 

 ちなみに、悪人(愚者)は、好き好んで悪人(の役)をやっているわけではない。どんなに努力しても、悪しかできないのが、悪人なのである。如何ともし難いのである。そんなわけで、今生、悪人の配役がまわってきた以上、それを忠実に演じるしかない。そしてその(悪業の)報酬は、甘んじて受けるしかない。それが理法であり、天命でもある。

 

 しかし、良いも悪いも束の間の事である以上、どうということはない。現実は、良い悪いなどと評価する暇もなく、次から次へと出来事が生じてくる。喜んで舞い上がったり、悲しんで落ち込んでいる暇など、全くない。それに、悪人も善人も、何れも人に変わりはない。人としての機能に、何ら変わりはない。つまり、人の同質性から見れば、善人も悪人も、いわば「誤差の範囲内」である。その意味で、悪人もまた可也。私はそう思う。

 

 話は突然変わるが、歴史(日中戦争時)の話である。例えば、ある都市を占領するために(敵とみなされた)人を大勢殺した。その中に、非戦闘員(一般市民)が多数含まれていた。人殺しは悪であり、そしてこの場合、戦時国際法違反でもある。しかし、ただそれだけのことである。

 

 言うまでもないが、戦争とは勝てなければ意味がないどころか、自滅行為そのものである。したがって、戦争は勝利が確実でなければ、するものではない。当たり前である。そして、戦争では綺麗事は通じない。破壊と殺戮、強奪が是とされる状況で、倫理や道徳など、全く以て無意味である。勝つか負けるか、ただそれだけが重要なのである。戦争では、勝利が善であり、悪は敗北である。「勝てば官軍」である以上、道義は後からどうにでもなる。

 

 日中戦争の場合も、戦争である以上、そうせざるを得ない、やむを得ない事情があった。ただそれだけなのに、「大東亜新秩序の為に」云々とか、ありもしない大義を捏造し、「軍規厳正な日本兵がそんなことをするはずがない」などと、現実離れした思いつきで誤魔化そうとするから、胡散臭くなり、結局は嘘が露見する。女々しい負け犬の遠吠えなのである。

 

 しかし、負けたとはいえ、自ら疚しくなければ、悪は悪で、やったことはやったと明言し、隠すことなく、堂々としていれば、あの悪漢、ヘルマン・ゲーリングのように、それはそれであっぱれである。そして、事実の隠蔽に奔走し、責任逃れに汲々とするのではなく、その報いは甘んじて受けるのが、大人というものである。このような見方に依拠すれば、戦中戦後の歴史は、この国に大人と呼べる人物が、ほとんどいなかったことを証明するように思われる。