五取蘊(2) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 執着するための次の出発点は、積極的で意図的な思考、つまり、これまたはあれを行う決意、これまたはあれを取得する意図、健全あるいは不健全な精神的形成(行)である。ほとんどの人は、何かが「私」または「自我」として識別できる場合、それは思考の可能性が最も高いと信じている。数世紀前、ある哲学者(デカルト)は「我思う、故に我あり!」という言葉に基づいて教示さえ行った。そして、今日の「科学」時代の哲学者でさえ、何千年も前から存在している「自我」についての同じ考えをまだ持っている。彼らは「考える主体」を「自我」と見なしている。しかしブッダは、「自我」の地位の候補としての身体(色)、感受(受)、知覚(想)を拒絶しただけでなく、精神的形成が「自我」であるという仮定をも拒絶した。思考または意志の衝動として現れる自然なプロセスは、過去のさまざまな出来事の相互作用によって発生する。「個人」の印象を与えるのは、さまざまな要素の集積だけであり、その中に「私」や「自我性」はない。他の存在グループ(蘊)と同様に、精神活動は「自我」がないか、それを欠いている。

 このことを理解するのが難しいのは、心がどのように機能するかについての知識が不十分なためである。我々は物質的な要素である身体には精通しているが、非物質的な要素である心についてはほとんど何も知らない。したがって、思考と呼ばれるプロセスが進行するとき、我々は、自動的に思考している「誰か」がいると想定する。我々は、考える何か、身体の住人としての「魂」などが存在すると信じている。しかしブッダは、そのような根拠のない仮定を断固として拒否した。

 もちろん、五蘊の最後である意識(viññāṇa)も「自我」ではない。 Viññāṇaは、眼、耳、鼻、舌、身体の感覚、心を通して知覚される感覚対象を意識するという単純な機能である。六つの「感覚の門」はそれらに出会う印象を与え、その結果、これらの事柄に対する(感覚の)気づきが生じる。たとえば目の場合、目に見える物体の色や形についての知識が生まれる。これは自動的に実行される、機械的なプロセスのようなものである。viññāṇaは「魂」であると主張する人々がいるが、我々仏教徒はそれを自然の単なる別の側面と見なしている。目に見える物体、視神経と(視覚)意識を備えた健全な目が揃うと、見ることが生じる。ここに「自我」を介在させる必要性は、全くない。

 「個人」を五つの存在グループ(五蘊)に分解すると、それ以上何も残らない。これは、それが色、受、想、行、識の五蘊のみで構成されており、「自我」や「自我」に属する可能性のあるものは何もないことを証明している。これにより、我々は誤った自我概念を投げ捨てることができる。

 人が事物に執着しなくなり、「好き」または「嫌い」で反応しなくなった場合、それは人が事物を自分ではないと認識したことを意味する。事物には自我が存在しないことを納得するには合理的な思考で十分であるが、それは単なる信念であり、「私」または「私のもの」として事物に執着することがすべて止むという明確な認識ではない。このため、三つの修習に基づいて五蘊を研究する必要がある。この方法によってのみ、「自我」の概念に執着することを放棄するのに十分な洞察を開発することができる。この修練で無明を完全に排除したとき、我々は、五蘊のいずれも「自我」ではなく、したがって、執着する価値のあるものはないことを自分自身で認識することができる。その後、執着は止む。したがって、「私」の想像力の柱である、五蘊を注意深く調べることが非常に重要である。ブッダは、彼の教えのこの側面を他の何よりも強調した。仏教を哲学、科学あるいは宗教とみなすかどうかに関係なく、それは仏教の中核部分である。この事実を知ると、無明に基づく執着がなくなり、欲望がなくなり、苦しみがなくなる。

 しかし、何故我々は通常、五蘊が実際に何であるかを確認できないのであろうか?生まれたとき、我々は物事のことを知らなかった。我々の知識は、他の人が我々に教えたことを反映している。彼らが我々に教えてくれたことは、すべての事物がそれ自体で実在するというものであった。このようにして、生まれてから存在していた本能の力が強化された。話すとき、我々は「私」、「あなた」、「彼」、「彼女」、「それ」という用語を使用するが、これも「自我」の考えを支援している。我々はこのように言う:「こちらはXさん、あちらはYさんです。」…「彼はAさんの息子でBさんの孫です。」...「彼は彼女の夫です。」...「彼女は彼の妻です。」この考え方と話し方で、我々は「自分」を定義する。その結果、気づかないうちに日々「自我」への執着が強まっていく。しかし、我々が「自分」として何かに執着すると、身勝手さとその結果としての行動が生じる。自我概念が妄想であることが分かるのに十分な洞察を開発できれば、それが放棄できるであろう。「Xさん」、「Yさん」、「上流階級」、「下層階級」、「動物」、「人間」などの表現は、人間が社会的交流のために考案した用語であり、言葉自体に執着する必要はないものである。「Xさん」が何でできているかを調べてみると、身体、感受、知覚、精神的形成、意識の集合体に過ぎない。これに気づいたら、ある種の共同妄想を取り除き、より知的な物事の見方に到達したと言える。そうすれば、我々はもはや世俗的で相対的な事実に惑わされることはない。

 さらに調査を進めることが可能である。たとえば物質は、大まかに古典的な四つの元素である地、水、火、風に、あるいは周期表の元素に従って、科学的に分類できる。深く見るほど、騙されることが少なくなる。本質的には物質的(色法)、精神的要素(名法)しかなく、「人」「Xさん」「妻」が消えてしまう。これらの元素にはすべて、共通の一つの特性がある。それは空性である。地、水、火、風は空であり、自我を欠いている。感受、知覚、精神的形成、意識は空であり、それらの中には「自我」はない。この「空性」(suññatā)をすべての人に認めること、それは我々一人一人にとって可能である。そうすれば、すでに生じているものに執着して保持することはなくなり、もはや存在の出発点ではなくなり、新たな執着は、もはや精神的に生じることはできない。この観点からは、動物も、人も、元素も、五蘊も実在しない。何もない。「自我」からの自由である「空性」だけがある。執着しなければ苦しみはない。すべてのものを「空」と見なす人は、良いか悪いか、幸せか不幸か、またはその他のレッテル貼りが止むために完全に不動となる。これは、五蘊の本質に対する明確な洞察の成果であり、四つの形態の稚拙な執着を完全に放棄することを可能にする。

 要約すると、次のように我々は言うことができる。すなわち、世界に存在するすべてのものは、五蘊、すなわち、色、受、想、行、および識に包摂されている。この五蘊それぞれは幻覚であり、「私」と「私のもの」は空であるが、 魅力的な力を喚起するため、人はそれに執着し、しがみつく。 したがって、凡夫は所有する欲求、存在する欲求、所有しない欲求、存在しない欲求を有しているーこれらはすべて、明白で隠された苦しみの創造につながるだけである。したがって、誰もが戒、定、慧の三つの修練の恩恵を受けて、五蘊に関するすべての妄想を完全に取り除く必要がある。これを行った人は、もはや五蘊の力の下になく、苦しみから解放されている。彼にとって人生は純粋な至福である。彼の心は何よりも、彼が生きている限りである(輪廻しない)。これは、五蘊に対する完全に明確な洞察の成果である。


(訳了)

 人が様々な努力する本当の目的は、楽の受(vedanā)を得るためだと言う主張は、説得力があったと思う。戦争やイデオロギー対立、その他諸々の努力・尽力の類も、結局はこれが原因であるという。もしそうだとするならば、人間とは本当に情けない存在である。というのも、どんな感覚にしろ、それは無常であり、それを一時もとどめておくことはできないにも関わらず、そのためにしか力を尽くせないとは…。私的には、saññā(概念)こそが人が最も執着するものであると思っていたが、人が囚われるものとして快楽の感覚にまさるものはないということであろう。

 いずれにせよ、六つの感覚器官から入ってきた中性的な情報を、各人各様の当てにならない主観的基準で是非善悪の判断を下し、それについて勝手に執着し喜怒哀楽し、そして肉体的にも精神的にも自らを破壊しているのが凡夫である。愚かとしか言いようがないではないか。