五取蘊(1) | QVOD TIBI HOC ALTERI

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„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 前回に引き続き、今回は、ブッダダーサ比丘の著書『人間ハンドブック』(Buddhadāsa Bhikkhu, "Buddhismus verstehen und leben: ein Handbuch für die Menschheit," Hrsg.: Buddhistische Gesellschaft München e.V., 2006)から、誤訳もあるとは思うが、自分の勉強用に、第六章を訳してみる。

 

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Ⅵ.五取蘊

 


 我々は、何に囚われるのか?何に執着するのか?我々は、「世界」に執着している。この「世界」という用語は、仏教では通常の言語表現よりも、はるかに広い意味を有する。それは、人間界、天界、動物界、餓鬼や悪魔の世界といったある特定の存在のレベルだけでなく、それらにおけるすべての事物を指す。さまざまなレベルが我々から隠されているため、世界を見通すことは困難である。我々のほとんどは、平均的な人(凡夫)の知性に対応する、相対的な事実のレベルである表層しか知らない。仏教が我々に世界についてさまざまなレベルで教示しているのは、そのためである。

 ブッダの教えにおいては、世界は物質的(色)側面と、非物質的(名)側面に分けられる。精神的な側面は、さらに四つの要素に分けられる。それらをまとめて、人間の世界を構成する、これら五つの構成要素は、存在の五つのグループ(五蘊)を構成する。

 肉体(rūpa:色)は、存在の物質的なグループである。

 ここで、四つの精神的要素をより詳しく検討する。

 四つの精神的グループの最初のものは、感覚あるいは感受(vedanā:受)である。感覚は三つの形で生じる。すなわち、楽あるいは満足、苦あるいは不満足、そして精神的な愛着でも嫌悪でもない、むしろ不明瞭な、優柔不断な感情である、中立的な形(不苦不楽)として。通常の状態では、感覚は常に我々の中に存在する。我々は感覚で満たされている。そしてブッダが説明したように、感覚は我々人間の本質的な部分でもある。

 精神的な存在の二番目のグループは、知覚あるいは認識(saññā:想)である。それは、深い眠りや無意識からの目覚めと同様に、意識的になるプロセスである。それは感覚的印象を我々の記憶と結びつけ、眼、耳、鼻、舌、あるいは身体の触覚および以前の印象の記憶と、ある対象の接触の一次的印象との間の架け橋を形成する。saññāを通して、物体が黒か白か、長いか短いかなどを直接知ることができる。あるいは、記憶を通してそれを思い出すことができる。

 心の三番目のグループは、能動的思考あるいは心的形成作用(sankhāra:行)、自己連鎖的思考、何かを言ったり行ったりする意志、良い考えや悪い考え、意図的な思考の構成要素である。

 心の四番目のグループは、意識(viññāṇa:識)である。これは、眼、耳、鼻、舌、身体の触覚、そして心(意)自体を通して知覚されるところの、対象について知るという単純な機能である。

 五蘊は、第四章で説明した四つの類型の執着と固執が生じる場である。無明の程度に応じて、存在の一つあるいはすべてのグループが、「自我」として理解される。たとえば、ある少年がドアにぶつかって怪我をした場合、彼は自分の怒りや痛みを取り除くためにドアを蹴飛ばす必要があると信じている。換言すれば、彼は純粋に物理的な物体であるドアに執着する。それは木片にすぎず、彼の痛みの原因は、自分自身にあるにも関わらず。これは最低レベルの執着と固執である。自分の身体に腹を立てて、自分を殴ったり傷つけたりする人も同様のことを行う。そんな人は、身体やその一部を自分であると思っている。もう少し賢い場合は、そんな人は、感覚、知覚、積極的な思考あるいは意識に手を伸ばし、それらの中に「自我」を見い出す。そして、その人がグループを区別できないならば、彼は単にそれらをすべてまとめて、これらの総体を、彼の「自我」として見なす。

 肉体によって、快、不快、または(どちらでもない)中性を感じることは、人が「自我」に帰する可能性が最も高い側面である。我々が完全に官能的な経験の呪縛下にある状況を想像して欲しい。特に、魅力的で素敵な色、音、香り、味、そして触覚の対象が心を完全に捉えている場合。ここに我々が抱く喜びと楽しみの感覚がある。心地よい感覚、特に我々の身体の触覚の喜びが嫌う人はほとんどいないので、ほとんどの人が感覚と自分を同一視する。無明と妄想は、人に他のすべてを忘れさせる。彼は楽しい対象を見るだけで、それを自分が所有できる「自我」として理解する。つまり、彼はそれを「私のもの」と見なす。感覚は実際に苦しみの場である。精神的な観点からは、vedanā(受)はdukkha(苦)と同義であり、苦痛に他ならない。心地よい感覚は心を元気づけ、不快な感覚は心を圧迫する。利益と損失、幸福と苦しみの間の交代は、精神的不安と不安定さを生み出し、心は回転する。我々は皆、感覚を「自分の感覚」として執着する過程を注意深く見て、それを理解しようとする必要がある。むしろ、感覚を執着の対象として認識することで、心はそれらから独立する。受は通常、心を操り、後で後悔する状況に我々を置く。ブッダは、完全性または神聖さへの実践的方法において、感覚の調査に特別な注意を払うように繰り返し教示している。多くの人が、感覚を主な研究対象にするだけで、阿羅漢になった。感覚は我々すべての努力と行動の主要な目標であるため、それは我々の執着の出発点として、他のどの存在グループよりも重要である。我々はお金を稼ぐために一生懸命勉強し、一生懸命働く。それから我々は外に出て行って購入する。すなわち、機器、食べ物、娯楽、性的悦楽。そして、眼、耳、鼻、舌、身体の喜び、心地よい刺激を得ることを唯一の目的として、それらを使用する。我々は心地よい感覚を期待して、すべての財政的、肉体的、精神的資源を、ほとんど独占的に投資している。心地よい感覚で誘惑しなければ、お金を稼ぐために勉強したり、仕事をしたり、肉体的なエネルギーを費やしたりしないことは、誰もが知っている。したがって受は、我々にとって非常に重要であることがわかる。知りかつ理解することで、我々は感覚を制御することができる。この知識は、感覚の上位に心を置き、我々が他の方法よりも上手くすべての活動を実行することを可能にする。

 社会集団内で発生する問題も、感覚の心地よさに端を発している。国家間で対立したり、対峙している陣営間を詳細に分析すると、ここでも、両陣営が単に心地よい感覚の奴隷にすぎないことがわかる。戦争は、信念や理想に基づいて行われるものではない。実際、基本的な動機は、常に心地よい感覚への期待である。どちらの陣営も、自分たちにあらゆる種類の利益や利得を期待し、結果として生じる心地よい感覚を期待している。イデオロギーは単なるカモフラージュであり、せいぜい二次的な動機にすぎない。感覚の本質を認識することは、心の汚れ(煩悩)、不健全(悪)、そして苦の最も重要な根源の一つを知ることを意味する。

 天界の住人は、この点では上手くいっていない。彼らの感覚は人間のそれよりもはるかに繊細で、彼らの知覚にはるかに大きな影響を与えるので、彼らも完全に心地よい感覚に奉仕している。しかし、天界の住人でさえ、欲求し執着している素晴らしい感覚的印象への魅力から解放されていない。さらに高次元の、梵天のレベルでは、感覚的快楽は放棄されているものの、しかしここでも、心は深い集中がもたらす幸福に執着しているので、心地よい感覚からの自由はまだない。したがって、存在の等級で人間よりいくらか下にある動物も、はるかに粗い形の感覚の「犠牲者」になる。感覚の本質を認識すること、特に感受には自我が存在せず、それに執着すべきではないことを知ることは、人生において非常に役に立つ。

 想(saññā)も、しばしば「自我」と捉えられる。無教養な田舎の人々は、彼らが眠ると、「魂」と呼ばれるものが身体から離れると言っている。感覚的な知覚がないので、身体は木片のようになる。これが身体に戻るとすぐに、意識と覚醒状態が回復する。多くの人々は、知覚と同一の「自我」の素朴な概念を信じている。しかしブッダは、想は「自我」ではなく、記憶の助けを借りて感覚的印象を認識し分類する、自然なプロセスであると教えた。身体機能が変化したり中断したりすると、知覚も変化したり停止したりする。しかし、本物の仏教徒は、変化するものを「自我」と見なしたり、それを「私の自我」と見なすことは、できない。


(続く)