真夜中(3) | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

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 また、アチャン・チャーの法話を訳してみる。今回は、Ajahn Chah, "Erfahrbare Freiheit," Dhammapala Verlag (& Die Sangha, Wat Pah Nanachat). から、"Mitten in der Nacht"という法話の、後半部分を読んでみる。

 

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 …気分に従わないでください。自分自身を訓練します。それはあなた方が命を懸けるべき修行の一部です。あなた方は少なくとも、二、三回は泣いたに違いありません。そうです、それが修行というものです。眠くて横になりたい場合は、すぐにそうしないでください。横になる前に、眠気をなくしてください。しかし、あなた方全員を見て下さい。皆さんは、修行する方法を知りません。

 

 托鉢から戻ってきて、食事の前に食べ物を見ると、落ち着くことができず、心が狂犬のようになることがあります。唾液はすでに流れていますし、非常に空腹です。時々観想することさえ気にせず、ただ手を差し伸べるだけです。それは大惨事です。心が落ち着かず辛抱強くない場合は、鉢を脇に置いて、食べるのを控えてください。自分自身を訓練しなさい、これは修行です。ただ自分の気分に従い続けてはいけません。鉢を脇に置き、立ち上がって行き、食べないでください。(煩悩が)本当に食べたいと思っていて、非常に強情であるならば、食べさせないでください。唾液の流れが止まります。煩悩は、食べるものが何もないことを知ったとき、恐れるようになります。翌日、煩悩は、二度と食べるものがなくなるのではないかと恐れているので、敢えてあなた方の邪魔をすることはありません。もし私を信じているのなら、それを試してみてください。

 

 人々はこの修習を信用せず、実際に実践することを敢えてしません。彼らは飢えて死ぬのではないかと恐れています。しかし、それを試さなければ、それが何であるかを知ることができません。 私たちのほとんどは、そうすることを嫌います。そんなことできない、恐ろしすぎる、と。

 

 私は長い間、食べ物やその類のものに悩まされてきたので、これが何であるかを知っています。そして、それはほんの些細なことです。しかし、この修練を学ぶのは、容易ではありません。

 

 覚えておいてください。すべての事柄の中で最も重大なものは何ですか?死だけです。他には何もありません。死はこの世界で最も重大なことです。それを見て、修行して、問いかけてみてください。服がなくても死ぬことはありません。タバコを吸ったり、ビンロウの実を噛んだりできなくても、死ぬこともありません。しかし、ご飯や水がないと死んでしまいます。私はこれら二つのものを、この世界で不可欠だと思っているだけです。身体を養うためにはご飯と水が必要です。私は他に何も興味がなかったので、提供されたもので満足しました。ご飯と水さえあれば、修行するのに十分でした。それで満足しました。

 

 皆さん方にとっては、それで十分ですか?他のすべてのものは余計です。入手できるかどうかは関係ありませんが、本当に重要なのは、ご飯と水だけです。

 

 「このように生活するなら、生きながらえることができるだろうか?」そう私は自分に問いかけました。「生きるのには十分です。ほぼすべての村の托鉢で、少なくともご飯は、全ての家から一口もらえるでしょう。通常、水も利用できます。この二つだけで十分です。」 私の目標は、特に豊かになることではありませんでした。

 

 修行には、通常、善し悪しが共存します。あなた方は、敢えて修行しなければなりません。これまでに墓場に行ったことがない場合は、必ず行ってみてください。夜に行けない場合は、日中に行ってください。夕暮れに行って、そこに留まることができるまで、ゆっくりと歩けるように、自分自身を訓練し続けてください。それからあなた方は、修習の効果を見ます。そしてあなた方は理解するでしょう。

 

 これまでの幾多の生において、心に騙され続けてきました。私たちが好きではない、あるいは好みではないもの、それを私たちは忌避したいのです。私たちは、ただ恐れを甘やかします。そしてそれが、私たちが「修行」と呼んでいるものです。しかし、それを修行とは呼ぶことはできません。実際、それが本当の修行である場合、あなた方は自分の生命を危機に晒します。本当に修行することを決心したのなら、どうして些細な懸念に行き詰まる必要がありますか?「私はほんの少ししか得られなかったが、君はずっと多くを得た。」「君が私に言い掛かりをつけてきたので、私は君と口論した。」私はそのようなものを探していなかったので、そんなことを考えたことはありませんでした。他の人が何かをしたとしても、それは所詮、彼らの仕事でした。他の僧院に行っても、そんなことに惹かれることは許されませんでした。他の人がどんなに地位にあろうが、高かろうが低かろうが、私はそんなことに興味はなく、自分の仕事だけに気を配りました。それで私は敢えて修行しました。そして修行は知恵と洞察につながりました。

 

 修行が本当に正しい地点にあるならば、あなた方は本当に修行しています。あなた方は、昼も夜も修行します。夜、静かな時間に坐って瞑想をし、それから外で歩行瞑想を行い、少なくとも夜に二、三回は(瞑想を)切り替えるでしょう。歩いて、座って、また歩いてください。私は退屈していませんでしたし、瞑想を楽しみました。

 

 時々、静かに雨が降っていたとき、田んぼで働いていた日々を思い出しました。私のズボンは前日からまだ濡れていましたが、夜明け前に起きて履かなければなりませんでした。それから私は家から出て、水牛を牛小屋から出さなければなりませんでした。薄暗い光の中で、私は小屋が、水牛の糞で完全にまみれていることしか見ることができませんでした。それから水牛は尻尾を振り回し、糞を私に飛び散らせました。水虫で足が痛いのですが、歩き続けて「生きることはなんでこんなに悲惨なの?」と思い、そこで歩行瞑想をしていました。小雨は私にとって何を意味しましたか?そのような考えで、私は実際に自分自身を励ましました。

 

 流れに入ったら、それに匹敵するものはありません。法の修行者の苦しみに匹敵する苦しみはなく、彼の幸福と同じような幸福は、ありません。それに匹敵する熱意はなく、一般の怠惰が彼の怠惰に接近することはありません。法の修行者は素晴らしいです。そういうわけで、本当に修行するとき、それは見るべき光景であると私は言います。

 

 しかし、私たちのほとんどは、実践したり達成したりせずに、実践について話すだけです。私たちの修行は、屋根の片側が雨漏りしている人のようで、家の反対側で寝ています。それから、太陽が一方の側に差し込むと、彼はもう一方の側に戻って、「他の人のようなまともな家を、いつ手に入れることができるのか」と、いつもそう考えます。屋根全体が雨漏りしている場合、彼は立ち上がって出て行きます。それは物事を成し遂げるための正しい方法ではありませんが、それはほとんどの人がやっている方法です。

 

 私たちの心、その煩悩に、もしあなた方がそれに従うならば、問題を引き起こすでしょう。煩悩に従うほど、修行は駄目になります。実際の修行では、熱情に驚かされることさえあります。他人が修行しているかどうかは気にせず、一貫して修行し続けてください。誰が来ても行っても、それは問題ではなく、ただ修行するだけです。それを「修行」と呼ぶことができる前に、自分自身を見なければなりません。本当に修行するとき、心に葛藤はありません。ただ法があります。

 

 まだ熟達していない箇所はどこでも、まだ欠けているものは何でも、それはまさに関与しなければならない所です。まだ克服できていない場合は、あきらめないでください。あることを処理した後、別のことに行き詰まるので、それも克服するまで追求し続けてください。あきらめないでください。それが完了するまで、満足しないでください。この点にすべての注意を向けてください。坐ったり、横臥したり、歩いたりするときは、ここに細心の注意を払ってください。

 

 修行者は、まだ畑を耕していない農民のようなものです。彼は毎年稲作をしていますが、今年はまだすべてを準備することができていません。それで彼の心は忙しく、彼は安心して座ることができません。彼の仕事はまだ未完成です。友人と一緒にいても寛げず、未完の仕事のためにいつも悩んでいます。あるいは、階下の家畜に餌をやる間、家の上の階に赤ちゃんを置いていく母親のように、家から落ちるのではないかと心配して、いつも赤ちゃんのことを頭に入れています。彼女が他のことに忙しいときでさえ、彼女の思いはいつも赤ちゃんと一緒です。 

 

(続く)