真夜中(4) | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

„Was du dir wünschst, das tu dem andern“.

 同じことが私たちと修行実践にも当てはまります。私たちは修行を決して忘れません。何か他のことに忙しいときでさえ、修行は私たちの思いから遠く離れることはなく、昼夜を問わず継続的に付随します。もし人が実際に本当の進歩を遂げたいならば、修行はこのようでなければなりません。

 

 まず、師匠を信頼して、指示や助言をもらってください。そしてそれを理解したら、実践してください。師匠が何か指示を出した場合は、その指示に従ってください。修行実践が理解できたら、師匠があなた方に指示を与える必要はもうありません。自分で実践するだけです。不注意や好ましくない状況が生じたときはいつでも、自分を認識し、自分自身を戒めてください。心は、内なる証人を認識する、あなた方の法廷です。心は、皆さんがまだ大いに惑わされているのか、それともほんの少しだけなのかを自ら知っています。間違いを見つけたら、すぐに修行して、修正してください。

 

 これは修行がどのように見えるかです。それはほとんど狂っているように見えるでしょう。あるいは実際に狂っているとさえ言われるかもしれません。本当に修行しているなら、その人は夢中になります、狂ったように無我夢中になります。人は歪んだ知覚を持っていて、それからその知覚を調整します。それを変えなければ、その人は従来どおりの苦悩に満ちて惨憺たる状態にあります。

 

 ですから、修行には多くの苦があります。しかし、自分の苦に気づかなければ、苦聖諦を理解することはできません。苦を理解し、それを取り除くために、人は最初に苦に遭遇しなければなりません。外に出ないで鳥を撃ちたいと思うならば、どうやって撃ちますか?苦、苦…仏陀は苦について教えられました。生苦、老苦…苦を体験したくないのなら、苦は見つけられません。苦を見なければ、苦を理解することはできません。苦を理解していなければ、苦から解放されることはできません。

 

 今、人々は苦を見たくありません、彼らは苦を経験したくありません。彼らが今ここで苦しんでいるなら、あそこへ逃げていきます。皆さんには彼らが見えますか?彼らはいつも苦を引きずり回しているだけで、決してそれを取り除くことはありません。彼らは苦を洞察したり調べたりしません。ここで気分が悪い場合は、あちらに逃げていきます。そこで苦が発生すると、彼らは再びここに戻ってきます。彼らは自分の身体の苦から逃げようとします。しかし、まだ無明に覆われている限り、あなた方は至る所で苦を見出すでしょう。皆さんが苦から逃れるために空を飛ぶとしても、苦はあなた方と一緒に飛行機に乗り込むでしょう。苦は私たちの内にあるので、もし皆さんが水に潜るとしたら、苦は皆さんと一緒に潜るでしょう。しかし、私たちはそのことを認識していません。苦が私たちの中にあるとき、苦から逃れるためにどこへ逃げればよいのでしょうか?

 

 人がある場所で苦しんでいる場合、他の場所に逃げます。そこにも苦があるなら、彼らは逃げ回ります。彼らは苦から逃げ出していると思っていますが、そうではありません。苦は彼らと何時も一緒です。彼らはそれを知らずに苦を持ち歩きます。苦を見なければ、私たちは苦の原因を見ることはできません。苦の原因がわからなければ、苦の終わりが見えず、それを回避する方法もありません。

 

 疑いの余地がなくなるまで、苦を注意深く見る必要があります。あなた方は実際に、命を懸ける必要があります。グループでも一人でも、躊躇しないでください。他の人が怠け者なら、それは問題ではありません。多くの歩行瞑想を実践し、一般的に多くの実践をしているあなた方のために、私は結果を保証します。皆さんが本当に一貫して実践修行しているなら、他の人が行こうが来ようが、または何であれ、一期の雨安居で十分です。私がここで皆さんに言ったようにしてください。師匠の言葉に注意深く耳を傾け、口論に乗ったり、頑固になったりしないでください。彼があなた方に何を言っても、率先してそれをしてください。知識は間違いなくそこから生じるので、あなた方は修行を恐れる必要はありません。

 

 修行も"patipada"です。さて、パティパーダとは何でしょうか?均等かつ継続して修行することです。古参のPehのように修行しないでください。雨季の瞑想実践の間、彼はもう話さないことに決めました。彼は大成功を収めましたが、それから彼は、小さな紙片にあることを書き始めました:...「明日、私のためにご飯を炒めてください。」彼は実際に焼き飯が食べたかったのです!彼は話すのをやめたが、結局彼は非常に多くの紙に用事を書くことになり、以前よりもさらに気が散漫になった。彼はあることを書き留め、次の瞬間は別のことを書き留めましたーなんて奇怪なのでしょう!なぜ彼が話さないことを選択したのか分かりません。彼は修行が何であるかを知りませんでした。

 

 実際、私たちの修行は、自然であるだけで、少欲知足によって成り立っています。あなた方が不調あるいは意欲的に感じても、気にかけないでください。「忙しい」「怠けている」とさえ、言わないでください。ほとんどの人は、意欲的に感じたときにのみ修行します。調子が悪い場合は、修行をやる気がありません。それは人々が通常行うことです。しかし、僧はそのように考えるべきではありません。意欲的であるとき、修行します。そして、調子が悪いときも、修行します。他のことを気にしないでください、ただ気分や感情を払い落として、代わりに修行してください。今年、来年、いつでも、昼夜を問わず、粘り強く修行してください。熱意や怠惰の思いを無視し、暑さ寒さを気にせず、ただやってください。これは、"samma-patipada"(正しい修行)と呼ばれます。

 

 何人かの人々は、実際に非常に一生懸命に努力しますー多分六~七日。しかし、その後、望む結果が得られないとき、彼らはあきらめて完全に脱落し、おしゃべりや会話などにふける。それから彼らは修行を思い出して、六日か七日間それに戻って、それからまた止めてしまいます...これが何人かの人々が実践する方法です。最初に彼らは自分自身を修行に投げ込みます。しかしその後、止めてしまうとき、彼らは自分の什器さえ気にしません。彼らはただ立ち去って修行を放棄します。その後、地面が非常に固くなったとき、彼らは自分の仕事を思い出し、もう少しやりますが、途中で止まります。

 

 こんな調子だと、庭や田んぼのまともな手入れはできません。それは私たちの実践と同じです。パティパーダが重要でないと信じるならば、修行によってあなた方をは何も達成出来ないでしょう。"Samma-patipada"(正精進)は、間違いなく非常に重要です。いつも実践してください。気分のむらに従わないでください。気分が良い悪いにかかわらず、修行はなすべきです!仏陀はそのようなことを気にしませんでした。彼はすでにすべての良いこと悪いこと、そして正しいこと誤ったことを経験していました。それが彼の修行でした。好きなものだけを取り、嫌いなものをすべて拒否するのであれば、それは修行ではなく、災厄です。どこへ行っても満足することはありません。どこへ行っても苦しみがあります。

 

 この修行は、犠牲を供えるバラモンに譬えることができます。どうして彼らはそんなことをするのでしょうか?彼らは見返りに何かを望んでいるからです。私たちの中にはこのように修行する人もいますが、なぜ修行するのでしょうか?私たちは再生、別の存在状態を望んでいるので、何かを達成したいと思っています。欲しいものが手に入らなければ、バラモンの供物のように、もう修行したくありません。あなたがたの修行の動機は、欲望です。

 

 仏陀はそのように教えませんでした。修行を発展させることは、あきらめ、手放し、止め、根こそぎにすることです。再生のためにそれをいかなる状態にもしません。

 

 

(続く)