放下著 | QVOD TIBI HOC ALTERI

QVOD TIBI HOC ALTERI

Das ist ein Tagebuch...

 仏教の真髄とは何か?そう尋ねれば、禅宗の和尚さんならば、「<仏教の真髄とは何か?>が、それだよ」とか、あるいは、とぼけた顔で「皮袋だろ」といった返事を返してくるだろう。まさにその通りなのであるが、それでは一般向けの、低レベルの常識的な話は始まらないので、一応、論の上では、「無常」・「苦」・「無我」であると言っておく。

 一切が変化するから自分の思い通りにならない。自分の思い通りならないことは、苦しみである。しかし、その一方で、一切が変化するということは、恒常的主体である自分ですら変化を逃れず、その結果、(変化しない)自分というものは、どこにもないということになる。

 自分がなければ苦しむ必要もない。なぜならば、すべて他人事だから。すべては、ただ、そうあるに過ぎない。そこには「私が」とか「私の」といった余計事-自分-が介在する余地は、ないのである。

 一切は否応なしに生起し、否応なしに滅する。それがダンマ(法)である。そこに自分の思い通りにしようなどといった人の都合は入り込む余地などない。思い通りにできないものを思い通りにしようとして来た愚かさ-無明-が、苦の根源である。思い通りにできないのだから、思い通りにしなければよい。なるようにしかならない。これで終わりである。

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 …仏教の要旨というと、例えば、四聖諦であり、縁起であり、あるいは空であったりと、すべて仏教の核心と言えます。しかしそれは、学習の核心だったり、実践の核心だったり、成果の核心だったりします。

 では、学習と実践と成果のすべての面から見た精髄とは何でしょうか。それは、「サッペー ダンマー ナーラン アピニヴェサーヤ」(何ものも、自分、自分のものと執着するべきではない)、というブッダの言葉です。これが三蔵の中のたった一つの真髄です。それが拡大されていろんな経論になりました。

 ブッダは「誰でも<自分は、自分のもの、ということにこだわるべきではない>という言葉を聞いた人は、仏教のすべてを聞いた人であり、そのように実践する人は、仏教のすべての実践をする人であり、執着しない実践の結果を受け取る人は、仏教のすべての実践の結果を受け取る人である」と言っています。

 …私たちは、未来永劫存在する真のブッダを指導者としています。人であったゴータマ・ブッダも、仏舎利も、仏足石も、仏像も必要ありません。しかしそれらの物を突き抜けて真のブッダに到達するもの-つまり「苦を滅すことができるダンマ」-こそが真のブッダです。こうすることで、私たちは真のブッダを維持することができると信じています。

 愚かにもブッダは涅槃につかれたという、人の口真似をしないでください。そういうのは、ブッダを知らない人の言うことです。それは正しくありません。本当のブッダは涅槃に入ることなく、常に私たちと共にあります。

 涅槃に入ったのは煩悩、あるいは肉体で、真のブッダとは、理性で苦を滅すことができるダンマです。つまり、何ものにも執着しないこと、です。ブッダは今もあり、永遠に存在します。
 
 仏教徒は、理性的な人、明るい人、つまり滅苦ができる人になってください。そしてダンマの原則による穏やかさで、明るくいてください。そして仏教の真髄を、つまり何ものにも自分、自分のものと執着してはいけないという教え、あるいは忠告をいつも身につけてください。(こちらより改変の上、引用)

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 ブッダダーサ(プッタタート)比丘の法話は素晴らしいと思うが、「何ものにも自分、自分のものと執着してはいけないという教え、あるいは忠告をいつも身につけてください」という件は如何なものか。揚げ足とりと言われればそのとおりであるが、我々の実態は、いかなるものも留めておくことが出来ないようになっている。「放下著」というブッダ最高の教えでさえ、留めておくことが、つまり、執着が出来ない。身につけることなど、不可能なのである。

 

 そもそも、気づいていようが気づいていまいが、何をしてもしなくても、我々は一人残らず、ダンマ(法)そのものである。それ(事実)を殊更に掴めば、それは余計ごとである以上、必ず支障を生ずる。本来既にそうなのである。すでにそうであることを、わざわざ身につける必要は皆無である。私はそう思う。

 

 結局は、人の言い分には用がなく、事実に目を向ければ良いだけである。それが本来の修行というものであろう。