ディズニー映画における悪役たちの歌についての考察 | 辻明佳のナイフとフォーク

辻明佳のナイフとフォーク

旅、お料理、ときどき女優。

役作りをしていない期間とか、気持ちをリセットしたい時、ととのえたい時、ディズニー音楽を聴くことが多い。
第一作『白雪姫』から、(ミュージカル作品としての)最新作『アナ雪』までの挿入歌をかたっぱしからプレイリストにつっこんで、すべてをシャッフルして聴くのが最近好きな聴き方。

ヒロインが歌うはなやかなメインテーマもいいけど、ヴィランズの歌う歌が好きだ。
無性にそればっかり集めて聴きたくなるような気分のターンが、わりとくる。
ベストを挙げろと言われたらどれかなー。

大本命は何よりもまず『リトル・マーメイド』の『哀れな人々』。ミュージカルの中で物語が進行する歌が昔から好きで、私の中ではこれがその代表選手。アースラのダイナミックな歌唱もすんばらしいし、最後の歌詞で「さんざ歌ってきたけど、今回救われるのはあたしであってアリエルじゃないからね」とさりげなく(しかもthose をthisに変えるというワンワードだけで!)ほのめかしちゃってるのも小憎い。

あーでも『ライオン・キング』の『準備をしておけ』も大好きでして、ぞうの骨をたたいてるみたいななにあの音、木琴? マリンバ? とスカーのシブい悪人声にしびれたものでした。最後に「準備」ができるのが好き。

あとは『ポカホンタス』の『マイン! マイン! マイン!』も、鉱山のmineと「おれの」のmineをかけた歌詞や(翻訳家たちは頭をかかえたことだろう)、純粋に冒険をたのしむジョン・スミスと悪いボスとのコントラストがミュージカル観てるなー感あっていいし、あー『ノートルダムの鐘』の『罪の炎』を忘れてはいかんかった! 映画館であの、炎の中から躍り出るエスメラルダを見たときはまじで鳥肌たったね。いまではなんてことないCG技術なんだろうけどね。

ここではたと気づいた。
ヴィランズがこんなあざやかに歌い踊るのは、『リトル・マーメイド』以降の作品のみなのだ。

1966年、『ジャングル・ブック』の完成を待たずしてウォルトが亡くなってから、ウォルト・ディズニー・カンパニー作品の人気はゆるやかに下降してって、プーさんあたりを境に完全に低迷期をむかえる。
きつねと猟犬、オリビアちゃんの大冒険、コルドロン、などを含む時代だ。ディズニーマニアでもなければ、ほとんどの日本人が観たことも聞いたこともないはず。この時代が10年くらい続く。
その後、路線をおおきく変更して彗星のごとく登場、大ヒットしたのが1989年の『リトル・マーメイド』。マジかよ18年前なのかよと思ったらえ? 28年前だった。ショック。としとるわけだぜ。
白雪姫の原点にもどったかのような10年ぶりのプリンセス・ミュージカルもので、その後、美女と野獣、アラジン、ライオンキングなどのメガヒットを連発、第二の黄金期『ディズニー・ルネッサンス』を築き上げることになる(いっこちょっと『ビアンカの大冒険』の続編ていうみんなよく知らないやつがまじるけど)。

そして悪役の「ボス」が歌を歌い始めるのは、このディズニー・ルネッサンス以降なのだ。

(ちなみにこの黄金期もちょうど10年続き、1999年のターザンを境に、またぱったりと「なんかディズニーが新作やってるらしいけどよくわかんない、王様がラマになるらしい」みたいな時代を迎える。日本ではリロ&スティッチだけヒットしたのかな。「やっぱこれだよディズニー!」という大ヒットは、またもやその約10年後の『塔の上のラプンツェル』まで待つことになる。)

初期の黄金期のディズニーヴィランズは、重々しくてあまり動かない、奥のくらいとこからヒロインをみつめてギラリ、ニヤリ、みたいなキャラクターが多かった。
白雪姫のおきさきさましかり、シンデレラの継母しかり。

初期で歌う悪役は
『ピノキオ』のファウルフェロー(キツネね)の『ハイ・ディドル・ディー』
『ピーターパン』の海賊たちの『フック船長はエレガント』
『ジャングル・ブック』のヘビや、一瞬だけトラ

たったこんだけである。
歌うのは全員、動物枠、もしくはコミカルしたっぱ枠。

おきさきさまも、継母も、フック船長も、ストロンボリもロバ売りも、あの美しいマレフィセントも、キャラデザの怪作・クルエラ・デ・ビルも、ハートの女王も、歌わない。
どんなにあいつがおそろしいか、歌われることは多いけど、自分じゃ歌わない。

悪役のくせにペラペラ歌いだすなんて、多少なりともかわいげのあるしたっぱや動物キャラじゃないと成立しない、という判断だったのかな。いい大人は歌なんか歌わなかったのかな。

それに対して、第2期黄金期以降は、悪役の歌も大きな見せ場になっていて、メガヒットしたミュージカル作品には、ぜったい、ある。
前述のリトルマーメイドで『哀れな人々』を絶唱するアースラはじめ、美女と野獣のガストン、アラジンのジャファー、ライキンのスカー、ポカホンタスの総督、ノートルダムのフロロー、ラプンツェルの魔女お母さん、アナ雪の王子(本性バレ前だけど)、みんな歌う。
ふだんおしゃべりキャラとかじゃなくても平気で歌う。

逆にもう、ヘラクレス、ムーラン、ターザンあたりがメガヒットとまではいかなかったのは悪役が歌わなかったからじゃね? とまで、こうなってくると思えてくる。


なぜこうも違うのか。

考えてみよう。
初期のディズニー映画にあって、今のディズニー映画にないもの。

たとえば「オーバーチュア」である。
オーバーチュアは、オペラとかのいちばん最初に流れる音楽である。人物はまだ出ない、オケだけ。よく聞くと物語全体のダイジェストだったり、内容を暗示させるような構成の音楽だったりする。
もともと、オケピでの生演奏を前提とする舞台につきもののものだったんだけど、初期のディズニー映画には、かならずこのオーバーチュアが、ついていた。今なら映画のいちばん最後に出すのがあたりまえのスタッフクレジットを最初にぜーんぶ出して、その背景に音楽を流していたのだ。

そしてたとえば、「人の動き」である。
ディズニー長編映画の第一号『白雪姫』でみてみよう。

冒頭の『願いの井戸』、そして、王子さまが白雪姫に一目ぼれして歌う『ワン・ソング』。
この二曲とも、メインの歌い手はなんか、ぜんぜん、動かないのだ。つったってる。
姫は井戸の前につったって歌って、王子もいきなりつったったまま愛の歌歌い出して、姫はそれをはにかみながらつったって聞いてる。なにこれ。
おさなごころに、なんか、びみょーーに、違和感あった。

その後も『歌とほほえみと』『いつか王子様が』の二曲で、白雪姫は一歩も動かない。一歩も、だ。
それ以外の三曲は「そうじ」「労働と移動」「パーティー」という場面なのでそれなりに動きがある。
が、歌のテーマがこと「心情」にいたった時、歌い手たちは立ち止まり、まわりはそれを聞き惚れる聞き手となるのだ。

かたや『アナ雪』の『生まれてはじめて』やレリゴーはどうだろう。ヒロインたちは走り、ころび、チョコをほおばり、氷の城を建て、忙しく走り回る。場面もストーリーもぐんぐん動く。歌い手が動かないのはクリストフのおやすみソングだけだ。最近のディズニー映画では、歌い手は感情がたかぶったとき、それを可視化するかのように動きまわるのだ。

ここで「オペラ」と「ミュージカル」の違いに思い当たった。
俳優=歌手であるオペラに対して、ミュージカルでは俳優は歌手であり、演技者であり、そしてダンサーである。

つまり、初期のディズニー映画、ことに『白雪姫』は、ミュージカル映画というより、かぎりなくオペラに近い映画だったのではなかろうか。
白雪姫も王子もかなり声楽っぽい歌い方だし。
『いつか王子様が』も『歌とほほえみと』もアリアなのだ。
オペラでももちろん悪役も歌う。だがオペラ『白雪姫』を映画作品にしなおしてみたとき、当時のスタッフたちには悪役の歌は「不要」、あるいはトゥーマッチ、またはバックに流れるスコアだけでじゅうぶん、と感じられたのではなかろうか。
それが無意識の伝統となって、以降の作品にも受け継がれたように、私は想像した。

ここまで書いときながら、私はオペラにくわしいわけではないので、「いや厳密にはオペレッタというべき」とかのお叱りや補足はぜひお願いしたい。


しかし、マレフィセントやおきさきさま、もし歌う場面があるとしたらどんなふうになってたか、想像するとめっちゃわくわくするね。聴いてみたかったね。

あーシーのヴィランズハロウィーン、やっぱり行っとくべきだったかなあー。
またやってくれ

おしまい
書き出したら止まんなくなっちゃった暇かよ
ご精読ありがとうございました