334)「甲府(府中)」は新しい名前 | 峠を越えたい

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 「府中」のままで残る地名、名前を変えてしまった「府中」、旧国名と名の合わさった地名(防府、長府、甲府、………)、など律令制での国府所在地の面影を残したり、残さなかったりする土地土地を考えます。

 東海道の江尻宿と鞠子宿に挟まれた府中宿は明治の初めに静岡に変わったのでした。駿府とも呼ばれていました。

 甲斐国の国府があったと思われる甲府について話を始めます。「伊能中図」(『伊能図大全』河出書房新社、渡辺一郎監修)より、

 「府中」と記されている辺りが甲府でしょう。こちらも「府中」と江戸時代には呼ばれていたようです。そこで甲州道中(甲州街道)の宿場の順序を調べます。「……鶴瀬宿~勝沼宿~栗原宿~石和宿~甲府柳町宿~韮崎宿……」(『甲州街道』Wiki.)。府中宿とは言わず、心引かれる宿場名です。そこで『甲府柳町宿』(Wiki.)を見ます。

 “甲府柳町宿は甲府城下本陣や問屋場などの宿の機能が「柳町」に集約されていたことに由来する。………

武田家の滅亡後、徳川家康により新たに現在の舞鶴公園に甲府城が築かれると、江戸時代の甲州道中は城の南側を通る道筋となった。江戸時代には当宿場を下府中、武田時代の躑躅ヶ崎を上府中、あるいは古府中といった。………八日町(現在の中央3丁目付近)には高札場があり、札の辻とも言われていた。八日町から南に曲がった角からが宿場の中心地であった柳町で、本陣、問屋が置かれていた(現在の中央二丁目から四丁目にかけて南北の町並み)

 「甲府」も「府中」も使われていたんですね。Googleマップにて「甲斐国の国府」と検索しました。

 表示された「甲斐国衙跡」は府中(甲府)からは少し遠い、笛吹川の左岸にあります。直線距離で8kmを越えますか。その住所が「笛吹市御坂町国衙」であり、国庁(国府)の名前を今に残しています。しかし、「笛吹市春日居町国府」と「笛吹市一宮町国分」も存在することを、『笛吹市公式ホームページ』内「古代の笛吹市―古墳時代から国府、国分寺の成立」に出会えて、知りました。図表を拝借。

 

 

 甲斐国府は3か所の間で、乃至は2か所の間で所在が移動したのではないかとされています。推定地(A、B、C)はいずれとも近いです。しかし1000年を優に超えて地名の残っていることに感銘を覚えます。甲府(甲斐国の府中)と元々の国府(国庁、国衙)所在地とは広い範囲で捉えて「府中」と考えたら良いのか、それでも2里以上離れていますね。『甲府市』(Wiki.)を見逃すところでした。

 “甲府という名称は、1519年永正16年)に甲斐国守護大名武田信虎が、居館を石和(現在の笛吹市石和町)、次いで川田(現在の甲府市川田町)から躑躅ヶ崎館(現在の武田神社・甲府市古府中町)へ移した際に、甲斐国の府中という意味から甲府と命名したことに始まるものである。

ただし府中とは、国の中心都市という程度の意味である[1]。歴史上の甲斐国府中(律令制に基づく国衙の所在地)がここだったことはなく、それはおそらく現在の笛吹市内である。………”。

 何とかまとめられてやれやれ。「甲府」は武田信玄の父親の名付けたもので、比較的新しい名前です。さて余談ですが、山梨県立美術館(Googleマップの西端)にはミレーの描いた絵が幾つもあります。 

 ところで甲州道中にはもう一つ、府中宿があるはずです。武蔵国に。だから『伊能中図』では甲州道中に「府中」が重複します。東に戻り、その辺りの宿場を並べます。「………国領宿~下布田宿~上布田宿~下石原宿~上石原宿~府中宿~日野宿~八王子宿~駒木野宿………」。こちらは江戸時代から今日までずっと「府中」でしょうか。同「伊能中図」です。

 いつ頃からこの地名が使われていたのでしょうか、「国司館(こくしのたち)と家康御殿史跡広場 国史跡武蔵国府跡(くにしせきむさしこくふあと)国司館地区」(府中市トップページ>施設案内>文化・コミュニティほか>美術館・劇場・博物館・歴史館>)より、

 “ 国司館と家康御殿史跡広場(国史跡武蔵国府跡国司館地区)は、府中市本町1丁目14番地に所在する飛鳥時代から奈良時代前期(今から約1300年から1250年ほど前)の国司館跡と、安土桃山時代から江戸時代前期(今から430年ほど前)の徳川将軍家の府中御殿跡が発掘された府中市の歴史を象徴する史跡です。”

 少なくとも「府中御殿」が建てられた1590年代には、この地が「府中」と言われていました。もし国府の置かれた、1000年以上前からそうであれば驚きです。「甲府」とか「駿府」のような呼称を考えると、「武府」なんて格好良いですが、響きが良くありませんか。

 府中市のとなりにある国立市は武蔵国の国府と関わりがあるように思います。そこで『国立市』(Wiki.)を当たりました。

 “国立町の人口が5万人を超えて、1967年(昭和42年)に市制が施行された[2]。国立町の前身である谷保村(やほむら)北部の森林が大正時代末期に箱根土地により開発され、東京市と多摩地域を結んでいた中央線で、東の国分寺駅と西の立川駅から1字ずつ取って、中間につくる新駅(国立駅)とその周辺の地名が「国立」と名付けられた”。

 拍子抜けだなんて言ってはいけません。谷保(やほorやぼ)は市名として採用は無理かしら。国立駅に少し遅れて、谷保駅は南武線に存在します。この駅の命名時、「やぼ」が避けられたらしいです。谷保駅で降りて随分歩いたことがあります。NHK学園で講習を受けるためです。伊能中図に上・下谷保村が見えます。