327)加納県になったかも知れない岐阜県 | 峠を越えたい

峠を越えたい

戻るより未だ見ぬ向こうへ

 「岐阜」なる地名は織田信長の命名であると言われます。すると元々の名前が気になります。『コンサイス地名辞典』(三省堂、1975)に説明されています。冒頭の部分です。

 「井之口」とは稲葉城の城下町の一部分の地名と言うことでしょうか。稲葉城は斎藤道三の城でした。道三の娘婿が信長です。『岐阜城』(Wiki.)を読みます。

 “岐阜城(ぎふじょう)は、美濃国井之口の稲葉山岐阜県岐阜市金華山)にあった日本の城山城)。もとは稲葉山城と言い、鎌倉時代以来の歴史があり[1]、本格的に整備されたのは戦国時代斎藤道三の時期だと考えられ、織田信長が1567年の稲葉山城の戦いにより斎藤龍興から奪取し、本拠地を小牧山から当城へと移し、その縄張りを破却して新たに造営したものが岐阜城である。『信長公記』に「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されており、ここから天下布武、天下統一をおこなうという意味をこめて、信長が山頂にある城や麓にある町などを「井口」から「岐阜」へと改名したことにより「岐阜城」と呼ばれることになった。[2]”。

 「井之口(乃至は井口)」という土地にあった稲葉山城を後に造り替えた際、土地名を「井之口」から「岐阜」へと改名した。新築なった城が岐阜城と呼ばれるのには時間差があるのかどうか、意味が取りづらいです。当初は井之口城とか名乗ったのでしょうか。ともかく地名を「岐阜」に変えましたが、元々城下町「岐阜」は城を中心にしたそれ程広くない地域でしょう。コンサイスの引用した『岐阜』の後半部分に「岐阜市」の成り立ちや広がりが分かりやすいです。

 岐阜の町は岐阜城と加納城のそれぞれを中心にした地域が合わさったものだと言うことでしょうか。明治四年の廃藩置県により加納藩は加納県になったものの、同年に岐阜県へ合併されたそうです(『加納城』Wiki.より)。現在も「加納」という地名は残っています。加納宿は中山道六十九次の53宿めです。

 如何して岐阜宿は出来なかったのでしょう。17世紀初頭に岐阜城は廃城となり、加納城が築造されたそうです(『岐阜城』Wiki.)。その後の江戸時代を通じての「岐阜」はどんな様子だったのか。というのは『伊能中図』(「伊能図大全」、河出書房新社、2013)にて、加納宿周囲に「岐阜」という地名が見つかりません。

 だいぶ拡大したので見づらいです。「金華山」の西に「岐阜」はないですね。天領であったと記されている書き物があって、調べている途中に、『むかしの岐阜の写真と地図-20世紀前半と江戸時代』(「あきひこゆめてつどう」、Hatena Blog)に巡り会えて感謝します。

 “区域は金華山の西麓にかぎられる。信長時代から江戸時代をつうじて、この区域だけが岐阜だっただ。名鉄やJRの岐阜駅はおろか神田町も柳ヶ瀬も岐阜の区域にはいってない。いまみたいに岐阜のまちがひろがるのは、東海道線のえきができて、名鉄の前身美濃電気軌道のえきができてからだ。”

 更に先です。

 “関ヶ原のたたかいののち岐阜町は幕府の直轄領となり、美濃国内の政治を総括するくに奉行(くにぶぎょう)の陣屋がおかれました。1619年に尾張藩領にくみこまれ、政治の中心地ではなくなりましたけど、戦国時代以来あつめられた商工業者はほのままとどまり、岐阜町は地域経済の中核都市となりました。
 まち北部の長良川に面したかわみなとは河川流通のかなめで、尾張藩のかわ役所が材木やふなにの税金を徴収しました。またうかいでとれたあゆでつくるあゆずしはまちの特産品でした
。”

  ごく狭い岐阜の町があって商工業は盛んであった。中山道の加納宿と岐阜の町は別々に繁盛していたと言うことでしょうか。

「廃藩置県」をもう一度問題にします。加納県に取って代わった岐阜県が何時成立したかですが、『岐阜県』(Wiki.)の「歴史」>「近・現代」より、

 “1872年1月2日(明治4年11月22日)笠松県(1868年成立)と廃藩置県(1871年旧暦7月)でできた今尾県岩村県大垣県加納県郡上県高富県苗木県野村県、及び、名古屋県犬山県岡田県の飛び地が合併して岐阜県となる”。

 最初の廃藩置県で加納県が出来ましたが、その時岐阜県がありません。同年11月になって細かい県が一緒になった際に初めて「岐阜県」が成立したと読めます。それがすっきり分かる「府藩県対照表」(『岩波 日本史辞典』、岩波書店、1999)を見付けました。

 岐阜市が出来たのは廃藩置県(2回目のもの、1871.11.22)のずっと後で、1889年(明治22)です。『岐阜市』(Wiki.)内の「歴史」では、

    “1889年明治22年)7月1日、岐阜町と今泉村など周辺4村および上加納村の北半分が合併し市制施行する。……    

          ………

    ・1903年(明治36年)4月1日、稲葉郡上加納村を編入。

           …………

       近現代

       昭和時代(戦前)

    ・1931年昭和6年)4月1日、稲葉郡本荘村日野村を編入。

    ・1932年(昭和7年)7月1日、稲葉郡長良村を編入。

    ・1934年(昭和9年)12月5日、稲葉郡島村を編入。

    ・1935年(昭和10年)6月15日、稲葉郡三里村鷺山村を編入。

    ・1940年(昭和15年)2月11日、稲葉郡加納町則武村を編入。

    ・1940年(昭和15年)7月1日、稲葉郡南長森村北長森村木田村常磐村を編入。

     ………………………”。

 やっと分かって来ました。岐阜県という県名が初めて出来た明治4年は未だ岐阜町の時代です。それに遅れること18年後に、岐阜町といくつかの村が一緒になって岐阜市が成立しました。最初は狭かった岐阜市は更に周辺の村々を吸収して大きな岐阜市に成長していきました。加納町(江戸時代の加納宿)をも岐阜市が飲み込んだのはずっと後の昭和15年です。だからそれまで岐阜市とは別に岐阜県稲葉郡加納町が存在しました。

 各藩の版図そのままの、幾つもの県が合併して大きな一つの県に成るに当たって、その当時にも織田信長以来名の知れていたであろう「岐阜」県でまとめたいのは分かる気がします。一度県名になっただけに、中山道の大きな宿場加納宿も県名候補になりそうですが、他の藩との折り合いが付かないでしょう。「岐阜」町が県名に成るのが最初で、その後岐阜市が出来たのでした。

 さて、別のページの端っこに、もっとピントの合った伊能中図がありました。反時計方向に90°回転させます。

 何と金華山の西(左下)に「岐阜町」が載っています。始めの見づらい伊能図にもあったんですね。