325)偶然知った東武鉄道の遠大な延伸計画 | 峠を越えたい

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 東武線の遠大な延伸計画を知ったのは偶然のことです。始まりは“東武東上線の「東上」の由来は何だろう”です。共に方向性を示しているならば「東へ上る」とは言いそうもないし、それなら「西上」線となるだろう。或いは、「上」の付く地名が沿線にあるだろうか。これも思い当たらず。それとも東京から埼玉へと北上して、もっと北に進めば「上野国(上州)」に達するが、この「上」は候補としてどうか。それなら「武上線」となりそうなもんだが、響きがそんなに良くない。そこで『東武東上本線』(Wiki.)に頼りました。全体が大変長い文章で驚きました。一般的には東上線とか東武東上線と呼ばれます。「概要」を過ぎて「歴史」のところです。

 “川越と東京を結ぶ交通手段は、江戸時代から入間川を通じた水運が発達していたが、明治維新と共に日本に導入された鉄道を建設しようという機運が、明治20年代以降ひときわ高まった。

 1895年(明治28年)、川越鉄道(現・西武国分寺線新宿線)が川越駅まで開通し、甲武鉄道(現・JR東日本中央線)に乗り入れて飯田町駅 - 川越駅間を直通した。その後1900年代(明治30年代から40年代)にかけて、日本興業鉄道(小石川下富坂町 - 高崎間)[10]・京越鉄道(池袋 - 川越間)[10](ともに未成線)など、川越の周辺で数多くの鉄道が企図・発起されたが、申請却下や免許失効などで実現しなかった。

 日本興業鉄道の発起人には、後に東上鉄道の発起人になる内田三左衛門千家尊賀が名を連ねていた。…………… 

 一方、京越鉄道の発起人には川越電気鉄道(後の西武大宮線)創業者の綾部利右衛門新河岸川・福岡運河(現・埼玉県ふじみ野市)の回漕店福田屋の星野仙蔵らが名を連ねていた。…………

 日本興業鉄道計画が絶たれた後、千家と内田ほか数名は新たに東上鉄道を発起した。1903年(明治36年)12月23日、逓信省(現・総務省。当時は逓信省が鉄道を監督)にて東上鉄道の仮免許申請書を提出した。途中出資者が集まらず、紆余屈折を経て、後に東武鉄道社長となった根津に会社創立を託すことになった。

 後述の通り、発起人たちは東京から新潟県長岡へ至る建設構想を有していたが、当面の終点目標(仮免許申請区間終点)である渋川町(現・渋川市)が属する群馬県の旧国名が上野国(上州)であることに基づき、会社名は東京と上野国(上州)それぞれの頭文字を取って「東上」とした。“

 推測が当たっていました。先ずは渋川まで延びるつもりであったため、「東上」の名前が出来ました。将来は何と越後国まで延伸したい遠大な夢でした。もし実現したら「東越線」とか「東後線」を考えたいです。

 引用文の後には大変興味ある内容が書かれています。東上鉄道が1908年に東京から渋川までの鉄道敷設仮免許を得た時点では、信越線(高崎~新潟)は既に開通しているものの、上越線は着工すらしておらず、東上鉄道の計画では渋川から先、新潟県方面への延伸構想も盛り込まれていた、ということです。ただ上越線を作る計画は1890年代に決定していました(『上越線』Wiki.)。

 ひとまずここで、全体を俯瞰したいので、古い路線図を掲げます。『汽車時間表』(1925年4月号、日本旅行文化協会)より、

 この時点では東武鉄道東上線(池袋~寄居)が小川町駅まで開通しています。やがては渋川経由で長岡まで延伸したいとなると、上越線と似通った走り方をしそうです。『東武東上本線』(Wiki.)には真に詳しい路線の通り方が記載されています。その(寄居~高崎~)渋川より北の経由地を並べます。渋川~沼田~真庭~湯原~万太郎~土樽~湯沢~塩沢~六日町~小出~十日市~長岡。高崎以遠は国道17号(三国街道)を通るようであると記されています。そうすると越後山脈克復方法は、清水峠を貫く上越線、上越新幹線、関越自動車道の辿り方でなく、三国峠を貫く、もっと西側を通る路線になります。東武線にはトンネルは余りありませんが、清水トンネルに匹敵する10000m程の三国トンネルとかを穿つ心づもりを持っていたのでしょうか。そしてトンネル両端にループ線も2本造る予定とかも。

 などと想像したまま路線経路を確かめもしないで終わったら、危うく嘘をつくところでした。「真庭」は上越線後閑駅の南にあり、ここから国道17号線は西に向かい、上越線は北北東に走ります。東武東上線の計画は17号線に沿ったものではありません。「湯原」はここです。

 水上駅の南西に見えます。「綱子」も分りましたが、橙色で囲んだ地域で、湯檜曽駅の東、清水トンネル南入口のループ線の位置です。清水トンネルを少し北へ行きます。

 「万太郎」は万太郎山とか万太郎谷の「万太郎」で良いと思いますが。そうすると、真庭~湯原~綱子~万太郎~土樽~湯沢~……は三国峠越え(17号線)でなく、上越線や上越新幹線が越後山脈を突き抜けるために選んだ清水峠ルートです。

 冒頭に載せた引用文の更に先です。

 “池袋 - 寄居間の現路線は全て東上鉄道時代に開業、もしくは着工されている。東武鉄道合併後の1923年(大正12年)に坂戸町駅 - 武州松山駅(現・東松山駅) - 小川町駅間、1925年(大正14年)7月に小川町駅 - 寄居駅間が開通して、現路線の全線が完成した。

 東武鉄道と東上鉄道の合併時点(1920年)では寄居駅以北の延伸についても準備が進められ、用地買収中であったが、鉄道省(現・国土交通省)が国直轄で八高線を建設する方針を固めたため中断された。その後1924年(大正13年)の寄居 - 高崎間免許失効により延伸計画は撤回され、東武東上本線は池袋駅 - 寄居駅間の路線として確定した”。

 寄居駅まで開通した東上線の路線図です。1930年10月号『汽車時間表』(日本旅行協会)より、

 寄居駅で東上線と接続しているのは秩父鉄道です。八高線はこの時未だ走っていません。1934年だから、4年後には八王子~小川町~寄居~高崎間が一気に完成して、八高線は全通しました。JR八高線の寄居~高崎間が出来るならば、東武線が高崎駅まで延びる必要がありませんか。もっと遠く高崎~長岡路線についてはいつまで考えていたのでしょうか。目論見は三国峠ルートでなく、清水峠ルートでしたが、東京から長岡へ至る建設構想は長い長いトンネルのことも考慮していたとしたら、立派です。もしも上越線建設計画が遅れていたら大仕事に踏み切っていたでしょうか。想像するだけでも心躍ります。しかし“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった”は国有鉄道に譲ったというか、先を越されてしまいました。