321)例幣使は何処から来るのか考えもせず | 峠を越えたい

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 私たちの町を南北に貫くmain streetは「例幣使街道」という日光に至る道の途中です。この街道が伊勢崎や足利を通り栃木、鹿沼、今市へと大雑把には西南から東北方向に走っているのを不思議に思っていました。江戸から日光を目指すならば北に向かって歩けば良いわけです。日光街道(日光道中)で事足ります。でも江戸を経由しなくて良い道ではないか。或は日光道中を真っ直ぐ下るのを避ける理由があったのかも知れない。『日光例幣使街道』(Wiki.)の「概要」より、

 “中山道倉賀野宿東の追分を北側に入り[1]柴宿太田宿栃木宿などを経て楡木宿の手前の追分で壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る[2][3]。楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通りと重複している。

………太田宿で南に古戸道、北に桐生道が通じている。天明宿から南に館林道が通じ、館林を経て、中山道鴻巣宿までを結んでいる。

 現在、群馬県高崎市から、伊勢崎市太田市[3]、栃木県足利市[4]佐野市栃木市鹿沼市、日光市に至る道路が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。  特に鹿沼市から日光市にかけての区間には日光杉並木が現存する。”

 上記引用に街道地図が図示されているので有り難いです。

 

 中山道の倉賀野宿(高崎宿の一つ南)が例幣使街道の起点のようです。Wiki.を更に読み進めると、遙か彼方の例幣使の出発地点が分かります。

 “…………例幣使は3月末または4月1日に京都を発って中山道と例幣使街道を経て日光に向かい、4月15日までに日光に到着したのち、翌朝に東照宮にささげものを納め、そのあとは江戸にまわって将軍に対面してから京都へ帰ることとなった[5][6]。”

 出だしは京都であり、遠路はるばる中山道を辿った一行は倉賀野宿で左折するんですね。江戸は帰路に立ち寄ります。しかし東海道を通り日光道中に入る方が余程楽です。そう言えば皇女和宮の降嫁の道も中山道が選ばれました。確か島崎藤村著『夜明け前』でその様子が描かれています。例幣使は必ず中山道を通ったのでしょうか。

 「天明宿」とは聞いたことがありません。「コトバンク」に載っています。その中の『天明宿』(てんみょうじゅく)は世界大百科事典旧版(平凡社)の解説です。

 “…1617年(元和3)日光山に家康の廟が造られるとき,改葬される遺骸は館林から天明を通り,栃木,鹿沼(かぬま)を経て日光へ入った。その後,隣接の小屋町(現在の佐野市街の中心部)を合わせて天明宿とし,46年(正保3)朝廷から日光廟(東照宮)へ毎年奉幣使が遣わされるようになって,日光例幣使街道の宿場として重視された。例幣使は4月12日に小屋町の本陣に宿泊するのが通例であった。…”。

 佐野市天明町という住所はあって、JR佐野駅と東武佐野市駅を結んだ線の少し西側です。でも小屋町は見つかりません。Google地図を示します。

 天明町は赤い点線で囲まれた区域で、この中で例幣使街道が直角に曲がっています。この前後で同街道はどうなっているのでしょう。直角に曲がるのは不自然ですね。

 地図の下端に近く、幸手宿に入って来る「日光御成道」が見えます。『日光御成道』(Wiki.)では、

 “日光御成道は、日本橋から中山道(現・国道17号)を進んだ1里目の本郷追分[注釈 4][8](別称「駒込追分」)がその起点となる。なお将軍の御成では神田川筋違門橋で渡り中山道へ入る。

 本郷追分では、中山道が左へ分岐する[9][10]。直進する日光御成道は岩淵宿川口宿(両所は合宿)、鳩ヶ谷宿大門宿岩槻宿を過ぎて、幸手宿手前で日光街道(日光道中)に合流する[11]。日光御成街道(にっこうおなりかいどう)とも呼ばれているが、将軍の一行はこの道では唯一、岩槻宿にのみ宿泊したので岩槻街道(いわつきかいどう)とも呼んでいた[5]

 本郷で中山道から別れて幸手宿で日光道中に合流する、将軍の日光社参に使われた道のようです。

 楡木から今市まで例幣使街道は「壬生通り」と名前を共有しているのでしょうか。鹿沼市楡木町には追分交叉点があって、北方向から来ると右に例幣使街道の佐野、足利方面で、左は壬生の町に通じています。最初のWiki.からの引用文に出ていた「追分」交叉点を図示します。

 

 上はMapionから採りました。また鹿沼の町なかの北の外れに御成橋という橋が架かっています。徳川将軍と関わりありそうです。『栃ナビ』で分かります。

 “江戸時代、将軍が日光にお成り(日光御社参)の際、新しく黒川の橋をかけかえたことから御成橋と呼ばれるようになり、町名にもなった由緒ある橋です。1998年、親柱や高欄が特徴ある現在の橋となり歩道には絵が施され、町の歴史や橋の由来などが窺えます

 将軍は日光に赴くときに例幣使街道も通るんですね。小山で日光道中を外れて壬生通りを進み、例幣使に入るのでしょうか。

 栃木駅の北口を出て北へ10分程か歩くと「日光例幣使街道」と表示された細い道を横切りますが、この道はその後如何辿るのか朧気であったところ、高崎の一つ手前の宿場から日光までの全体像までも捉えられて一安心しました。

 鹿沼から今市までの例幣使街道を覆う「日光杉並木」は幹の太い杉が林立し壮観ですが、道幅は当然昔のままなので、運転には注意を。花粉症の方はその時節には車の窓を閉めて。“昼猶暗き杉の並木”の箱根の山ほどかというと、それ程暗い印象のないのは真上が開いているからでしょうか。でも曇り空では暗いですね。