317)栗橋関所通過には渡し船か橋か川越しか | 峠を越えたい

峠を越えたい

戻るより未だ見ぬ向こうへ

 利根川を北に向かって渡る、渡し船の南岸の地である「栗橋」がなぜ「くりはし」と呼ばれるのでしょう。そんな名前の橋が利根川に架かっていたのでしょうか。渡し船の遙か前、江戸幕府が橋を取っ払った以前にはこの辺りに橋が架かっていたなんて事は有るでしょうか。大まかな土地柄を掴むため、『コンサイス地名辞典―日本編―』(三省堂、1975)を読みます。

 栗橋の関所とは良く聞きますが、「中田関所」との関係は如何なのか。渡し船の名前まで知ることが出来ました。静御前の墓とは初耳です。「しずか」村はそこから来ているのか。栗橋は「かわごし(川越)」ではないようで、考えてみれば川の深さは4尺5寸を何時でも越えていそうです。足立区立郷土博物館収蔵資料データベースに感謝しつつ『日光道中』(検索トップ>資料情報>日光道中)32枚より栗橋と利根川の様子を。

 

 上に描かれた建物群は関所ではなさそうですか。耳慣れぬ地名の「中田」ですが、「中田関所」は検索出来ます。『房川渡中田関所(ぼうせんのわたしなかたせきしょ)』(Wiki.)より、

 “房川渡中田関所(ぼうせんのわたしなかたせきしょ)は、江戸時代に奥州街道・日光街道の利根川筋(現大落古利根川)に設置された関所の一つである。奥州街道・日光街道の栗橋宿から中田宿の間、利根川筋古利根川沿いにあった。房川渡中田関所名の由来は、房川渡と中田宿の間にあったためと言われていたという[2]。通称栗橋関所であった[3]

 中田関所=栗橋関所で良いようです。「概要」では、

 “慶長年間に、地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、上河辺新田(現栗橋地区)が開墾された。その後、その後、元和2年(1616年)に日光・奥州街道筋が付け替えられ、その地に利根川渡河の宿駅として栗橋宿が成立した。栗橋宿は利根川対岸の中田宿と合宿の形態をとっていた。

 栗橋宿から中田宿につながる奥州街道・日光街道の間には利根川が交差している。しかし、軍事上の目的から架橋されなかったため、代わりに渡船場が置かれ房川渡しと呼ばれていた。また、利根川沿いには、房川渡中田関所が設置された[4] 関所は、当初中田側に設置されていたが、寛永元年(1624年)に栗橋に移設した。………”。

 日光道中を北に歩いて来て、利根川を渡る手前の栗橋宿と対岸の中田宿は房川の渡で結ばれ、関所は当初中田宿にあったが、栗橋宿側に移りました。「合宿」とは一緒の宿場という性格でしょうかね。『中田宿』(Wiki.)も載っています。

 “中田宿(なかだしゅく、なかだじゅく)は、江戸時代日光街道(日光道中)および奥州街道(奥州道中)における下総国宿場。日光・奥州街道の江戸日本橋から数えて8番目の宿場であるが、利根川対岸の栗橋宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述も有る。現在は茨城県古河市中田地先の利根川河川敷に相当する(現在の中田地区の街並は、後述の河川改修によって移転したものである)。”

 中田宿の浮世絵も載せないと。

 初めて出会った「中田」について知識をかなり増やすことが出来ました。栗橋の駅前にあるという静御前の墓ですが、『栗橋町』(Wiki.)に書かれています。この地で亡くなった謂れがあります。信憑性は如何ほどか。「静村」(栗橋町に以前あった)が800年ほども存続した名前かも知れないことに驚きを感じます。『伊能中図』(伊能図大全、河出書房新社、2013)をここで眺めます。

 日光道中(奥州道中)を北へ辿り、「粕壁(宿)」、「杉戸(宿)」、「幸手(宿)」と来て、栗橋宿と中田宿が見え、関所もあります。

 江戸幕府の設置した関所の内、特に大切であった4つを四大関所と呼ぶそうです(『四大関所とは!?-にっぽん旅マガジン』)。

 1:箱根関所、2:新居関所(浜名湖畔にあり)、3:碓氷関所(中山道)、4:木曽福島関所(中山道)。てっきり入っていると思った栗橋関所が外れています。「五大」とすれば入ってくれましょうか。

 さて、「栗橋」の名前の由来が書かれていて有り難いです。『「栗橋」の地名の由来』(「民俗学の広場」)より、

 “ 栗橋(くりはし): 埼玉県久喜市栗橋

・ 栗橋は「橋」、つまり渡し場に由来する。「くりはし」の「くり」は「くり船(渡し場の両岸に綱を渡してたぐって進んだもの)」に由来する。【出典】 

・ 県北東部、利根(とね)川右岸の沖積地に位置する。地名は江戸初期に栗橋村(茨城県)の農民が開発し、移住したことに由来する。語源は、くり舟の橋の意という。武州文書・毛利文書・浅野文書・岩上文書・芹沢文書などに散見する中世の栗橋は、現在の茨城県猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の元栗橋で、北条氏照が在城した栗橋城も元栗橋の地にあった。【出典”。

 どうもこの名前の橋が架かっていたのではないです。しかも「元栗橋」から移った「(新)栗橋」だそうです。